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関東の諸都市・地域を歩く
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#120 旧神奈川宿の町並みを歩く ~都市・横浜の原点の街道筋を行く~ 2017年1月28日、JR東神奈川駅からこの日の散策をスタートさせました。隣接する京急仲木戸駅との間はペデストリアンデッキで結ばれていまして、高層マンションが多く立つ大都市圏内の風景が広がっています。神奈川の地名は、かつてこの地域を貫通していた旧東海道の宿場町の名前に由来しています。幕末の開港に伴い現在の横浜の都心にあたるエリアが発展するまでは、この東海道筋の神奈川宿が中心的な市街地として興隆していました。県名にも選定された神奈川宿は、第一京浜から宮前商店街に入り京急神奈川駅西から青木橋を渡って台町へ至る道程が旧宿場町にあたります。関東大震災や第二次世界大戦による被災やその後の都市化に伴い、往時の姿の多くは失われていますが、かつての風景を想像しながら、大都市の只中となった神奈川の町を歩きました。
東神奈川駅を出てペデストリアンデッキから階下へ降り、京急線の鉄路の下をくぐって、第一京浜から一本北の路地へと入りました。神奈川小学校の南を歩いて行きますと、かつての神奈川宿の絵図をもとにしたモニュメントがあって、「神奈川」の地名の有力な説として、小学校東を流下していた小流「上無川」のことが紹介されていました。水が少なく水源もはっきりしない流れであったことから「かみなしがわ」と呼ばれるようになり、これが「かながわ」に転訛したものというものです。絵図に描かれた神奈川は、海の側まで迫る丘陵に張り付くように密度の高い家並みが延びています。旧東海道は現在は第一京浜と重なっていまして、首都高速が宙空を通過する都市景観は、歴史的な町並みという表現とはまさに対極的な光景です。そのような現代的な巷の中にあっても、神明宮や能満寺、そして良泉寺と、中世から藩政期にかけて創建された寺院も存在しています。これらの古刹を結ぶ市道は石畳をモチーフにした「神奈川宿歴史の道コース」として整えられていまして、地域の歩みを今に伝えていました。 寺院を訪ねた後は、「本来」の東海道筋である第一京浜の歩道を南へとって返します。首都高速道路が頭上を貫通する風景は、臨海部の新しい市街地へと続く建物群との間を縫うように進んでいまして、ここがかつては海岸線に近い場所であったことはまったく想像できません。神奈川警察署前を通り、宿場町を東西に二分していた滝の川の手前には、本陣跡があったことを示す表示板が設置されていました。神奈川宿には滝の川を挟んで東西に1つずつ本陣が設けられていました。滝の川に沿って街路を入り、アメリカ人宣教師で医師でもあったヘボン博士が療養所を開いていた宗興寺の脇を通り、かつて権現山と呼ばれた高台にある幸ヶ谷公園へ。公園からは、ことごとく建造物によって充填された周辺を一望することができまして、園内の緑がそれらの海に浮かぶように輝いていました。地域のランドマークであったと思われる小山は明治に入り鉄路建設のために削られた経緯があり、西側を東海道線・京浜東北線の鉄路が燦然と行き過ぎています。
幸ヶ谷公園から南へ街路を下り、旧東海筋へと戻ります。宮前商店街は商店の間にマンションが多く混じっていまして、京浜間における都市化の影響を色濃く残す姿が印象的です。通に面しては、1191(建久2)年に源頼朝が安房一ノ宮の安房神社を勧請したと伝えられる洲崎大神や普門寺、甚行寺も残されていまして、東海道の宿場町時代の雰囲気を感じさせました。鉄道で分断された東海道を連結するために完成した日本初の跨線橋である青木橋を越え、第二京浜(国道1号)の大通りを横断し、冬空の下くっきりとしたアウトラインを見せる高台を上っていく街道筋へと向かいました。巨大な鉄骨の台座の上、空に浮いたような格好で立地している三寶寺の異観も、ここが急崖でもって低地に望む場所であることを端的に物語っています。これまでも言及してきましたとおり、近代はじめまで、神奈川宿の町並みは海岸にせまる台地の下を通過する東海道に沿って町並みが発達していました。東海道はここ台町で坂道を上り、昔は台上の料亭からは眼前の海を美しく眺望することができたといいます。町の入口にある大綱金刀比羅神社は石段を上った先に境内があり、その社殿は藩政期には海を航行する船舶の目印ともなっていたとのことです。 眼下の神奈川湊を見下ろす景勝の地でもあった神奈川宿・台町の町並みを想像しながら、なだらかに上る街道を進みます。相変わらず中高層のマンションで埋まる街区の一角には現在でも料亭を営んでいる店舗もあって、かすかに往時の風合いをこの地域に漂わせていました。海が山裾までせまる小規模な峠道をまたぐような形になっていた台町の風雅に思いを馳せながら、神奈川台の関門跡を確認し、街道北側へさらに坂道を上り高島山公園へと歩を進めました。公園の名は横浜の実業家で横浜への鉄路敷設のために海上の埋め立てに尽力した高島嘉右衛門が後年居住したことに因む命名です。公園からは北側の眺望が開けて、丘陵の上にも下にもあまねく宅地化が進展した横浜の今日を改めて俯瞰することができました。坂を下って先ほどは見上げた三寶寺を同じ目線で一瞥した後、アメリカ領事館が置かれた本覺寺へ。境内からは第二京浜から環状一号へと続く街路に沿って夥しく立ち並ぶビル群が織りなす現代都市の風景を見届けました。
東神奈川駅への帰路は、第二京浜沿いをしばらく辿り、滝の川沿いを歩きながら市神奈川地区センター前の穏やかな松並木の通りを経由しつつ進みました。同センター横にはかつて東海道筋に建てられていたという高札場が復原されていました。幕末に横浜が開校場となってからは都市の賑わいは神奈川から横浜へと移り、神奈川の町は大都市間における住商混在地域のひとつとなってその容貌を大きく変えることとなりました。大都市内にすっぽりと含まれるという地域性もあって歴史的な風景という観点からは語られることも少なくなったかつての神奈川宿周辺ですが、丹念に歩きますと随所に藩政期のにおいを感じることのできる場所も多くて、港と町場とが魅力をなす都市・横浜の原点を存分に味わうことができたように思いました。 |
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