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関東の諸都市・地域を歩く


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#136 岩槻市街地を歩く ~城下町の構造を残す町並み~

 2017年10月15日、生憎の雨模様となったこの日、さいたま市東部の岩槻駅を訪れました。岩槻については、過去にご紹介していますが、約9年ぶりの再訪となりました。この間に、野田線には「東武アーバンパークライン」の愛称が与えられ、車両も「フューチャーブルー」と「ブライトグリーン」を配した車両に置き換えられて、その印象を一新していました。白壁が美しい和風調の駅舎は、2016年5月に完成したばかりで、曇天の下でもしっかりとした佇まいを見せていました。

岩槻駅前

東武岩槻駅前(東口)
(岩槻区本町一丁目、2017.10.15撮影)
岩槻駅

東武岩槻駅
(岩槻区本町一丁目、2017.10.15撮影)
人形店

岩槻駅前通りの人形店
(岩槻区本町一丁目付近、2017.10.15撮影)
岩槻郷土資料館

岩槻郷土資料館
(岩槻区本町二丁目、2017.10.15撮影)

 駅前の通りには、岩槻を象徴する産業である雛人形を扱う店舗が相変わらず数多く見受けられました。ぎっしりと店舗やビルが建ち並ぶ通りを歩き、かつての日光御成道の宿駅として栄えた国道122号を東へ折れて歩きます。この通りは「市宿通り」と呼ばれています。古い町屋造の建物や、通りに直交して短冊状の地割りが残る風景が藩政期を彷彿とさせます。通りはセットバックにより広い歩道が確保されて、伝統的な町並みと現代的な機能性との調和に配慮したものとなっていました。通りに面して建つ岩槻郷土資料館(国登録有形文化財)は、岩槻警察署庁舎として1930(昭和5年)に建築されました。一見するとありふれた鉄筋コンクリート造の公舎ですが、アーチ状の造形などアールデコ調の装飾が随所に認められます。建設当時は岩槻で最初の鉄筋コンクリート造の建物であったようで、落成当初は古い家並みにあって、モダンを感じさせる、目立つ存在であったことが偲ばれます。

 地域ゆかりの太田道灌の騎馬像が建つ芳林寺を訪問した後は、再び岩槻駅入口交差点へ戻り、国道の裏通りに残る岩槻藩校・遷喬館へ。当時のままの建物が残る旧藩校としては埼玉県内唯一という遷喬館は、茅葺屋根がしっとりとした風合いを呈していまして、質実さを是とした学び舎としての景色を存分に感じさせます。遷喬館の東側の路地を入り南に進みますと、酒造会社の蔵やレンガ造りの煙突があって、歴史のある城下町に美観を与えています。その南を北東に一直線に進むとおりは天神小路と呼ばれ、江戸時代には一帯は武家地となっていました。現代は閑静な住宅地となっていますが、所々に武家屋敷由来の門や生け垣が残されていまして、地区の生い立ちを記録していました。天神小路はやはり武家地を貫通していた諏訪通りに突き当たります。穏やかな小路を歩き、園が色の名前の由来となっている諏訪神社への参道を進んでいきますと、緑豊かな岩槻城址公園へと行き着きます。

市宿通り

市宿通りの景観
(岩槻区本町二丁目、2017.10.15撮影)
芳林寺

芳林寺
(岩槻区本町一丁目、2017.10.15撮影)
中心市街地

中心市街地の景観
(岩槻区本町四丁目、2017.10.15撮影)
遷喬館

遷喬館
(岩槻区本町四丁目、2017.10.15撮影)

 岩槻城は室町時代末に築かれた城郭で、元荒川に向かって着き出した台地上に本丸、二の丸、三の丸といった中枢部がつくられて、それらを取り囲むように広大な沼地がある構造でした。その周囲に武家地、城下町が建設され、それらをさらに囲む「大溝」と呼ばれた土塁と水路が防御する、いわゆる惣構えの形状を持った縄張りが特徴です。明治に入り廃城となった後は、沼地や堀は埋め立てられて、本丸等のあった場所は県道が貫通し、住宅地となっています。現在の岩槻城址公園は「新曲輪」と呼ばれた曲輪のあった場所にほぼ相当し、八ッ橋の架かる沼地や土塁、城郭の遺構とされる黒門と裏門などに往時の面影を感じることができるのみとなっています。公園の東側の市道に出て北へ進み、かつての岩槻城主要部であった本丸地区-県道に沿った住宅地-を西へと歩を進めます。県道沿いや消防署出張所敷地に「二の丸」や「三の丸」の跡を示す石碑が建てられていることは、江戸から明治へ、劇的に変貌を遂げたこの町の歴史をまざまざと物語っています。消防署の出張所脇の小道を入りますと、大手口跡。この場所も住宅地の一角なのですが、東側に堀跡と思しき窪地があって、浮城とも呼ばれた城の縁をここでも認めることができました。

 城下に時を告げていた「時の鐘」を訪れた後、渋江交差点から日光御成道筋を北へ入っていきます。雨に濡れるキンモクセイがほのかな芳香を漂わせていた浄安寺の門前を横切る道は、1924(大正13)年から1938(昭和13)年にかけて、東北本線蓮田駅から分岐していた武州鉄道の廃線跡で、現地には「武州鉄道の小径」という木製の看板が掛けられていました。築堤上をゆく東武線の下をくぐり、住宅地を縫って進みますと、岩槻の総鎮守である久伊豆神社の境内へと誘われました。岩槻が城下町となる以前よりこの地に祀られてきた神社の社叢は、県天然記念物のサカキをはじめ、スダジイ、スギ、クスノキ、ケヤキなどによって構成されていまして、依然しとしとと地面を濡らす雨露に、しなやかな輝きを見せていました。

天神小路

天神小路の景観
(岩槻区本町四丁目付近、2017.10.15撮影)
岩槻城址公園

岩槻城址公園
(岩槻区太田三丁目、2017.10.15撮影)
久伊豆神社

久伊豆神社
(岩槻区宮町二丁目、2017.10.15撮影)
元荒川

元荒川の風景
(岩槻区上野、2017.10.15撮影)

 久伊豆神社からは、元荒川の土手を歩きながら東武線鉄路近くの人道橋で川を越えて東岩槻駅へと至って、この日の岩槻市街地散策を終えました。元荒川は久伊豆神社の北側あたりではかつて大きく蛇行していまして、その河床の跡は航空写真でもくっきりと判読することができます。日光御成道は現在の人間総合科学大学付近で元荒川を越えて、北へと進んでいました。城下町として、また主要街道沿いの宿場町として都市基盤を整えた岩槻の町は、近代から現代へと進む中で住宅都市としてその性格を大きく変容させてきましたが、その町並みの中に、随所で城下町時代の面影を感じることができました。
 


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