Japan Regional Explorerトップ > 地域文・関東甲信越地方 > 関東の諸都市地域を歩く・目次
関東の諸都市・地域を歩く
←#41(草加編)のページへ |
#43(春日部編)のページへ→ |
|||||||||||
#42 吉川市街地を歩く 〜低地帯に広がる都邑の変容〜 2007年11月4日、草加市街地フィールドワークを終えた私は、越谷市街地を掠めながら元荒川に沿った旧道を東へ進み、吉川橋にて中川を越えて、吉川市域へと入りました。1996(平成8)年に市制施行した比較的新しい市である吉川市は、1973(昭和48)年のJR武蔵野線開業を契機として東京近傍としての利便性が高まり、緩やかながらも着実に人口を増加させています。自家用車を駐車した市役所周辺は穏やかな住宅地といった印象で、県道を挟んですぐ西を流れる中川のゆったりとした流れや緑がいっそう地域をのびやかな雰囲気にしていました。 市役所のある付近から南へ、JR吉川駅あたりまでの中川に沿った南北の帯状に連なる一帯が吉川の旧市街地で、河川の堆積作用によって形成された微高地である「自然堤防」の上に町場が成立しています。「中川自然堤防帯」とも呼ばれるこの地形は、近年の都市化により「吉川団地」や「きよみ野」などの住宅地域が旧市街地周辺の低地帯への展開もあって、地図上ではかなり目立たなくなりました。市役所西側の県道を南へ歩を進めますと、穏やかな町並みがまとまってまいりまして、ここが吉川という町の中心であることが伝わってきます。中川と元荒川の合流点に発達した町場の立地は、水運の一拠点として栄えた吉川の歴史を偲ばせます。
火の見櫓や古い佇まいの商店街、名物の川魚を扱う飲食店などが周辺に並ぶ吉川交番前交差点は、吉川と川越とを結ぶ主要道路である県道52号を迎え入れる要衝です。現在では失われているもののかつては旧吉川町の道路元標の設置された地点であり、古くから吉川市街地における結節点となっている場所であるようでした。 その県道52号を西へ進み吉川橋へ。中川のゆったりとした流れに架かる吉川橋は1933(昭和8)年に架設されたという、自動車が通行する橋としてはかなり古い部類に入る橋で、13トン以上の重量の車両は通行禁止となっているようでした。初代の吉川橋は1875(明治8)年に架けられたそうで、当時の吉川町在住の徳江氏によって架けられたことから「徳江橋」とも呼ばれたそうです。現在東詰には「古利根橋」と刻まれた石碑(かつての欄干でしょうか)があります。中川の流路がかつての利根川の流路で、大落古利根川筋にもあたることからこの名前でも呼ばれたものでしょうか(現在は県道80号野田岩槻線の橋として、大落古利根川に架かる橋の名前となっています)。石碑の存在は、近世から近代初期にかけても水運による隆盛が持続していた吉川の往時の記念碑であるようにも感じられます。
吉川交番前交差点に戻り南へ、奥ゆかしさの残る町並みを進みます。吉越橋へと繋がる方の県道52号との交差点は珍しい一文字の地名を称する「保(ほ)交差点」で、歩道の再整備工事が行われ現代の交通同校への対応が図られているようでした。保交差点を過ぎますとJR吉川駅が次第に至近になるにつれ、マンションや団地などの新しい町並みが顕在化してきまして、住宅都市としての吉川がはっきりと見えてくるようになります。JR吉川駅は高架駅で南北にロータリーを擁する、東京都区部近郊の地域にあっては中程度の商業集積といった規模の駅前でした。南口ロータリーには「なまずの町」を標榜するこの町の象徴として、金色のなまずのオブジェが設置されていました。 南口に連なる「けやき通り」の景観や、北口に戻って区画整理の進んだ中川沿いの県道よりは1ブロック東の市道沿いの市街地など、大都市圏近傍における住宅都市地域の姿そのままのエリアを辿り、市役所へと帰着、吉川でのフィールドワークを終えました。東京に接して鉄道網が延び、その多くの沿線において高度経済成長期以降急激な都市化と人口流入をみた埼玉県にあって、吉川の町もその例外でない変遷を経たことが理解される一方で、水に囲まれた低地が卓越し長らく都市化の波が及ばず、水運や稲作が生業であった歴史性の延長線上に今なお豊かに残る穏やかな表情をも見せてくれているように感じられました。 |
←#41(草加編)のページへ |
#43(春日部編)のページへ→ |
||||
関東を歩く・目次へ このページのトップへ ホームページのトップへ |
|||||
Copyright(C) YSK(Y.Takada) 2009 Ryomo Region,JAPAN |