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#5 蔵の街栃木 〜かつての県都、いまに輝く〜 日本における地域理解の手段の1つとして、「都道府県名」とその「都道府県庁所在都市名」のペアを覚えるというのがあります。青森県は青森市、秋田県は秋田市、山形県は山形市というふうに、多くの府県はそれぞれの府県庁所在都市名をその名前に採用しています。そうでない場合も、茨城県は県都水戸がかつて所属した郡名を採っているように、県都とかかわりのある名前になっているわけです。その中で、栃木県の場合はこの原則から外れ、県庁のある宇都宮ではない都市の名前−栃木−が県名となっています。その謎を解く鍵が、栃木市役所や栃木高等学校のある付近にあります。それが、「県庁堀」と呼ばれる掘割です。栃木にかつて県庁が置かれていたことを今に伝えています。現在の栃木県の範域に栃木を県都としたかつての栃木県と宇都宮を県都としたかつての宇都宮県が並立した時期も含めると、1871(明治4)年から1884(明治17)年にかけて、“県都・栃木”は存在していました。市役所別館(旧栃木町役場)の建物の横、「栃木県議会発祥の地の碑」が県庁堀を背に佇んでいました。 県庁堀を左手に、モダンな建物が残る栃木高校の校舎を一瞥しながら、北へ進み、泉橋で巴波(うずま)川を東へ渡って、嘉右衛門町方面へ至る街路を歩みます。県道との交差点の傍らには「日光例幣使街道」の石碑が建てられており、ここがかつての日光例幣使道を継承する道であることを語りかけています。旧街道筋に沿って、蔵作りの町屋や格子造り商家が軒を連ねており、静かな佇まいを見せていました。岡田記念館は、この地域の開墾、新田開発を行うなど発展の礎を築き、地域の名主として時に代官職を代行するなどの寄与のあった岡田嘉右衛門家の旧家です。付近の地名も「嘉右衛門町」となり、当家の影響力の大きさが伝わってきます。巴波川の流路の影響もあるのでしょうが、このあたりでは街路が緩やかにカーブを描き、味噌工場などの立地もあって、栃木の市街地の北縁に位置し、町場と在郷の接点のような場末的な雰囲気も感じさせます。町域の北端、大町との境界付近には庚申塔があり、それは道標の役割もまた担っているようでした。
栃木の町を有名にしているのは、現代の栃木のメインストリート“蔵の街大通り”です。百貨店やホテル、都市銀行といった現代の都市機能が立地するなかに、黒壁、白壁の土蔵、格子造りの商家などが点在する景観が整えられ、古きよき宿場町の風情が現代の町並みのなかに絶妙に織り込まれています。この景観は、しばしば「小京都」と呼称されて、近年多くの観光客をこの町に惹きつけているようです。下野新聞社栃木支局が入るのは、昔懐かしい雰囲気の格子の壁がシックな町屋であったり、市教育委員会がかつて入居した旧足利銀行栃木支店のモダンな建物が繊細なエッセンスを与えていたりと、いろいろな発見に巡り会える通りであるように思います。 蔵の街大通りから倭町の交差点を西へ進むと、巴波川に向かってアーケードの銀座商店街が連なります。西側には蔵の街大通りに並行して南北の旧例幣使道に沿ってミツワ通り商店街が連続します。冬の午後の低い日差しのもと、ひそやかな通りは人影もまばらで、カメラを携えて蔵を被写体に狙う観光客が闊歩する蔵の街大通りとは好対照を成していました。旧市街地のこのような現況は日本の地方都市に多くが直面しているようです。銀座商店街も、ミツワ通り商店街も、モータリゼーションが進展するまでは栃木の町の中心的な商業街としての地位を保っていたのではないでしょうか。私にはあるべき姿を頭に描くことはできません。しかしながら、これらのエリアが栃木の町のオリジンであり、栃木の町のアイデンティティとして、かけがえのない潜在性を持っているということは断言できると思っています。 銀座商店街の西、幸来(こうらい)橋まで至ると、栃木の豊かな景観を象徴するもう1つの貴重な存在である巴波川のたおやかな流が目に入ってきます。水上交通が陸上交通よりも圧倒的な経済性を持っていた近世から近代の初頭まで、栃木はこの巴波川の水運を通して栄えました。橋の西詰には、弘化年間(1844〜48年)に木材回漕問屋を開業して繁栄した塚田家の土蔵や黒塀が保存される塚田記念館があって、巴波川の豊かな水辺景観をいっそう格調高いものにしています。
巴波川の清清しい流れにそって南へ、旧例幣使道を歩みつつ、再び蔵の街大通りから南へ続く大通りに出てさらに南進した先には、高架化事業が完了して新たな駅舎に生まれ変わった栃木駅がありました。蔵の街栃木をダイナミックに、かつシンプルなラインのデザインで表現した美しい駅舎が印象的でした。 栃木県のかつての県都として、県南の拠点として一時代を築き、しなやかに発展してきた栃木の町は、東北線そして後の新幹線のルートから外れるなど、現代の都市間連携の軸線から一歩退いた位置にあって、相対的に停滞を余儀なくされているように見られるきらいがあるようです。そんな栃木の町の顔は、近世以降のたゆみのない都市としての風貌を活かした、溢れるばかりの輝きを内に秘めているように感じられました。かつての県都はうるおいを求める現代社会の渇望に応え、今、新鮮な輝きを放ち始めています。 |
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