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関東の諸都市・地域を歩く
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#97 流山市街地散策 〜白みりんの醸造で栄えてきたまち〜 2016年2月11日、つくば駅周辺を歩いた私は、つくばエクスプレスに乗車し流山を目指しました。高架や地下を走る同線には踏切は一カ所もありません。そのため高速運転が可能となっていまして、車窓からは住宅地域が進むエリアや田園風景がまだ色濃い地域、利根川の悠然たる流れなどを代わる代わる映しながら、颯爽とその風景を変化させていきました。約30分ほどの乗車時間でJR武蔵野線との接続駅である南流山駅へと到着しました。駅周辺は大規模に土地区画整理が行われていまして、マンションも多く立地する現代的な町並みによって整えられていました。
南流山駅入口交差点から県道280号を進み、流山八丁目交差点からは県道5号を北へ、流山市の中心市街地方面へと足を進めます。この南流山駅一帯は元来低地で、同駅開業に伴う区画整理が行われるまでは長らく水田として利用される場所であったようです。流山八丁目交差点を基準に見ますと、この交差点の北東側と県道280号から南のブロックは土地区画整理により規則的な街路構成となっているのに対して、北西側は細い路地がカーブを描く昔ながらの態様が残されていることが分かります。同交差点に北西から斜めに接続する道路は明治期に作成された地勢図にも認められる古くからある道路で、この道路が進む先、江戸川に沿って南北に連なる街区が、伝統的な流山の中心地です。「流山街道」と呼ばれる県道5号もその町並みの東側に建設されたバイパス的な道路です。 南流山八丁目交差点からこのかつてのメイン道路を進んで、穏やかな住宅地を歩いてきますと、鳥居に大きなしめ縄(毎年10月に氏子や地域住民が力を合わせて作るものであるとのことです)のある神社−赤城神社−へと到達しました。赤城神社は海抜15メートルほどの小山の上に鎮座しています。この神社を巡っては、かつて群馬県の赤城山が噴火し、その土塊がこの地に流れ着いたとの伝承があり、流山の地名の由来も、この「山が流れてきた」という言い伝えに基づくものであると言われているとのことです。一説には赤城山のお札が流れ着いたとも言われているようで、いずれにしても流山の地名が遙か離れた上州の赤城山に基づくとする口碑は共通しています。この赤城神社のある高まりは、すぐ西の江戸川の土手からも、流山の町並みの中に浮かぶように見えまして、地域のランドマークのような存在であるようにも見えました。堤防上には「丹後の渡し跡」の標柱があって、1935(昭和10)年に廃止されるまでここで営まれていた公営渡船の歴史を伝えていました。
再び昔ながらの家並みが続く町場(流山本町<ながれやまほんちょう>と呼ばれます)へと戻り、寺田稲荷神社や長流寺などを訪ねながら歩を進めますと、寺院の南側に「小林一茶寄寓の地」と題された説明表示が目にとまりました。俳人小林一茶と親交が篤く、自身も俳句を嗜み「双樹」と号した五代目秋元三左衛門は、「天晴みりん」のブランドで著名なみりんを開発したとされる人物です。流山は江戸川による水運と醸造技術により、いわゆる白みりんの産地として栄えた歴史があり、この天晴みりんと「万上みりん」は流山みりんは二枚看板として長く流山の経済を支えてきました。この場所には秋元家の安政年間(19世紀中葉)の建物を移築し、併せて往時を偲ばれる商家や庭、茶室などを、この流山の歴史と関わりの深い、小林一茶と秋元双樹との故地に再現し、「一茶双樹記念館」として解放しています。記念館の南には2007(平成19)年まで天晴みりんの工場が操業していました(同ブランドは現在別会社によって製造されています)。 一茶双樹記念館を後にして、昔懐かしい雰囲気の巷をさらに北へと歩きます。やがて通りの前方に大きな工場が見えてきました。流山みりんの二大商標のもうひとつ、万上みりんを手がける流山キッコーマンの製造拠点です。万上みりんは、江戸中期の1814(文化11)年に相模屋二代目の堀切紋次郎が開発に成功し、現在に至っています。工場の道に面する壁面には、「流山本町まちなかミュージアム」として、流山の白みりんに関連した資料が展示されていました。途中には庚申塔があったり、工場までの貨物引込線跡を転用した道路などがあって、地域の歴史を今に伝えていました。流山キッコーマンの工場を過ぎ、ゆるやかなカーブとなった先を西へ入り、新撰組の近藤勇陣屋跡産や焔魔堂の前を通りますと、明治時代前後から残る町屋造の建物が多く残る一角へと進みます。位置的には県道5号の流山一丁目交差点から西へ進み、最初の信号機のある三叉路の周辺一帯です。付近には国登録有形文化財の呉服新川屋店舗をはじめ、呉服ましや土蔵(市指定有形文化財)や笹屋土蔵(国登録有形文化財)や丁子屋などの蔵造りの建物が残って、流山の繁栄を象徴していました。少し南へ行った場所にも清水屋本店・寺田園旧店舗(ともに国指定有形文化財)も残ります。市ではこの一帯を「流山本町江戸回廊」と名付け、PRを図っているようでした。
町並みの西側に続く江戸川の堤防に再び上り、1960(昭和35)年頃まで存続したという矢河原(やっから)の渡し跡を一瞥しながら、夕日に染まる江戸川の風景を眺望しました。穏やかな流山の町並みはとても美しく、また南東方向へ目をやりますと東京スカイツリーも遠望できまして、江戸と古くから結びついて成長した地域の歩みを跡づけているようにも感じられました。町並み散策の最後は、ローカル鉄道として地域の足をして今日も走り続ける流鉄流山線・流山駅に向かい、この日の活動を終えました。同線はJR常磐線馬橋駅と流山駅を結んでいます。流山はつくばエクスプレスの開通によって都心と直結し、また武蔵野線や東武アーバンパークラインとの結節も生まれて、住宅都市として近年さらなる人口増を見せています。そうした趨勢にあって、伝統産業に支えられたしなやかな町並みが残る姿はとても新鮮に目に映りました。 |
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