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神戸メモリーズ・アンド・メロディーズ

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III.灘三郷を歩く

 神戸市の東部には、灘区、東灘区と、「灘」を称する区が2つあります。「灘」は、その言葉のとおりの意味をとれば「海」ということになります。灘は山陽道が京都を出て、最初に海と出会う場所であり、灘のあたり、「灘辺(なだべ)」と呼ばれていたようです。それが灘目と変化し、いつしか「灘」と呼ばれるようになった、という説が有力とされています。
 さて、灘といえば“灘の生一本”の酒処として全国的に知られております。灘エリアには複数の酒造地域があり、それらの総称のされ方は時代により変化があるようで、“灘三郷”という括り方もそのようなバリエーションのあるもののひとつであるようです。現在では後述する灘五郷と呼ばれる5つの酒造地域のうち、神戸市内にある西郷(大石)、御影郷、魚崎郷を総称した呼び名として使用されることが多いようで、本稿ではこの考え方によって“灘三郷”の語を使用してまいります。このような変遷があるのは“灘五郷”についても例外ではなく、前述の西郷、御影郷、魚崎郷に加え、西宮郷、今津郷を加えた5地域がいわゆる“灘五郷”と呼ばれるようになったのは、(1886(明治19)年に「摂津灘酒造組合」が結成されて以降であるようです。
 現在でも多くの酒造業者が操業する灘にあって、その中心的な位置にあった、御影と魚崎の町を歩いてみました。


(6)御影から魚崎へ 〜酒処のアイデンティティに生きる〜

 阪神石屋川駅にて下車し、石屋川に沿って進みます。川は三面を護岸されながらも、静かな流れを六甲の山々から導いていました。 当地の酒づくりは元弘・建武(1330年)の頃から既に行われており、酒作りに大切な播州の酒米、水、六甲おろしの寒風等の自然的風土に恵まれ、伝統ある酒造技術を持つ丹波杜氏と相まって、芳醇な灘の生一本が醸しだされたといいます。石屋川の穏やかな流れは、そうした時間と人々の営みそのままに、穏やかに行き過ぎていくように思われました。もちろん、六甲の急峻な地形は時として河川を溢れさせるほどの水を流させ、甚大な被害をもたらしてきた歴史も忘れてはなりません・・・。

 石屋川の両側は、このあたりでは公園として整備されており、公園の周囲の柵やモニュメントは酒蔵の町並みをイメージさせるものになっています。傍らに、神戸市による「酒蔵の道」なる標示板が設置されています。


「酒蔵の道」

東灘区には、「灘の生一本」で知られる灘五郷のうちの魚崎郷と御影郷があります。
この酒蔵の道は、酒蔵の黒い板壁に合わせた白と黒を基調とした道路舗装や周辺景観とマッチした松並木の整備など修景整備に努めています。


 こうした景観整備は必ずしも酒蔵の町そのものを再現したものではないのでしょう。しかしながら、そうした歴史的背景に立ちながら、現代の都市生活のスタイルと調和された、「うるおい」のある景観づくりを目指しているという理解でよいのでしょうか。かつての酒造地は今、大都市圏の一部として住宅地が大幅に拡大し、高架の高速道路も通過する景観となりました。阪神高速の程近く、醸造棟を含む4つの酒蔵群から成る複合施設として震災後に再出発した「神戸酒心館」が佇みます。

石屋川の景観

石屋川の景観
(東灘区御影塚町二丁目、2004.12.12撮影)
神戸酒心館と阪神高速

神戸酒心館と阪神高速
(東灘区御影塚町一丁目、2004.12.12撮影)
神戸酒心館

神戸酒心館
(東灘区御影塚町一丁目、2004.12.12撮影)
酒蔵の見える風景

酒蔵の建物のある風景
(東灘区御影塚町一丁目、2004.12.12撮影)

 阪神・淡路大震災前には、 大きな瓦で屋根を葺いた酒蔵は灘におよそ50棟あり、酒造地の町並みが形成されていました。 しかし震災後、 昔ながらの様式のまま修復され、再建されたものは3棟のみであるのだそうです(神戸東部市民まちづくり支援ネットワークホームページ、リレートーク2「酒蔵の町並み」より)。酒造元のうち、再建なったものの多くは、鉄筋づくりのより耐震性、機能性に優れた構造を求めました。実際に「酒造の道」を歩いてみますと、豊かな酒処の雰囲気を感じる、板塀の蔵造りの建物が見られる一方、高層住宅などの住宅が建設されていたり、また1つの大きな工場が解体されたものとも考えられる広大な空き地も認められました。昔ながらの製法に加えて、現代では、化学プラントのような工場にて清酒の大量生産を行うことが当たり前になっており、そうした工場が一定の面積を占めてきた趨勢があります。そうした煙突とコンクリートに並んで、多くの酒蔵は、ひっそりと、この地域の伝統を受け継いできました。このまちの「アイデンティティ」は、「酒蔵の道」の中に、地域の中に、刻まれています。それを埋没させてしまうか、変わらぬ穏やかな姿として存在たらしめるか、「酒蔵の道」はその道標としてどのような役割を担うことになるのでしょうか。


御影石町一丁目付近

御影石町一丁目付近、建設中の住宅地
(東灘区御影石町一丁目、2004.12.12撮影)
広大な空き地と酒蔵の見える風景

広大な空き地と酒蔵の見える風景
(東灘区御影石町一丁目、2003.12.13撮影
化学工場のような酒造メーカーの工場

化学工場のような酒造メーカーの工場
(東灘区御影本町、2004.12.12撮影)
モダンな雰囲気の酒造メーカー社屋

モダンな雰囲気の酒造メーカー社屋
(東灘区御影本町、2004.12.12撮影)

 高層の住宅群や近代的なコンクリート造りの工場群の続く御影の町を歩きます。それらの近代的な事物の中にあっても、酒造会社の建物の至るところに祠が祀られていたのが印象的でした。モダンなつくりの酒造メーカー社屋の向こう、六甲の山に向かってゆるやかに駆け上がるなめらかな容貌を呈した住宅群、颯爽と駆け抜ける阪神高速、そして海に向かって目覚しく進出した近代都市の趨勢、すべては現代の神戸を象徴しているようです。その片隅に佇む祠は大切に守られて、密やかに地域の記憶を編んでいるかのように思われました。



「魚崎郷」を示すモニュメント
(東灘区魚崎西町二丁目、2004.12.12撮影)
魚崎郷、高層住宅と酒造工場

魚崎郷、高層住宅と酒造工場
(東灘区魚崎西町二丁目、2004.12.12撮影)
住吉川と六甲ライナー

住吉川と六甲ライナー
(東灘区魚崎南町五丁目、2004.12.12撮影)
酒造会社資料館遠望

酒造会社資料館遠望
(東灘区魚崎南町五丁目、2004.12.12撮影)

 酒造工場が建ち並ぶ景観は、御影本町から住吉南町、そして魚崎西町へと至っても続いていきました。住吉川の流路に沿うように、人工島六甲アイランドへと続く六甲ライナーが伸びていきます。その高架下、松並木の向こう、酒造会社の資料館が再建されていました。御影の町と同様、周辺は高層のマンションが並ぶ現代の都市空間が連続しています。その中にあって、少しではありますが、酒造地としての証は息づいているように感じられました。酒蔵の道の行き着く先には、現代と伝統とがうまく融和した新たな灘三郷のあけぼのが輝いているのではないでしょうか。この町は、酒処のアイデンティティに生きている、そう信じたいと思います。

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