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III.灘三郷を歩く 2004年12月の御影・魚崎散策に続き、2005年9月に灘三郷の残りの1つである西郷地域を巡りました。西郷地域は大石、新在家の2地区を中心とした地域で、灘三郷の一角として酒造会社の多く立地するエリアです。阪神・淡路の多くの地域の例に漏れず、酒造地域を印象づけてきた古い木造の酒蔵が倒壊するなど、西郷エリアでもその被害は甚大なものであったようです。震災と復興、大都市圏地域における都市化により急速な変容を遂げてきた酒造地域・西郷を辿ります。 (7)灘三郷・西郷を辿る 〜酒処のかたちをしるす道〜 阪神大石駅にて下車します。高架となっている駅の下には、都賀(とが)川の流れがあります。都賀川の名前は、現在の灘区のあたりが中世から近世にかけて「都賀庄」と呼ばれていたことに由来しているのだそうです。国道2号線が川を渡る付近のバス停や交差点の名前に見られるように、地域では「大石川」の名前でも親しまれている川のようです。都賀川は高度経済成長期を経て汚染が進み、いわゆる「どぶ川」のようになり環境悪化が進んでいました。1976(昭和51)年に「都賀川を守ろう会」という団体が結成されて都賀川の環境浄化にたいへん尽力されたとのことで、今日の都賀川は六甲の山々からほとばしる清純な水をそのままにその河道へ伝わせていまして、一部区間には水草を繁茂させるなど、穏やかな佇まいを見せているように感じられました。 灘の生一本と美称される清酒は、「宮水」と呼ばれる湧水からつくられます。宮水とは、西宮市の海岸から1kmほど内陸に入った浅井戸から湧く六甲山地からの伏流水で、鉄分が少なく、リンやカルシウム、カリウムなどを多く含む硬水とのことです。灘地域は石屋川や住吉川など比較的多くの水流に恵まれていまして、こうした河川の一筋一筋の水が清らかさを保ちつづけることは、灘が灘であることを印象づけることであるといえるのかもしれません。都賀(大石)川のみずみずしい流れの源の方向にたおやかな六甲の山々を望みながら、このようなことを考えてみました。地域の川を大切にする取り組みにも敬意を表したいと思います。阪神高速・国道43号線のガードをくぐって都賀(大石)川の流れに沿ってさらに南しますと、沢の鶴資料館へと至ります。沢の鶴資料館は、木の壁と石瓦の風合いが美しい、伝統的な酒蔵をイメージしたつくりの建物です。近くには住吉神社のお社と杜もあり、酒造地域らしい奥ゆかしい景観が展開します。阪神・淡路大震災で全壊するまでは、古い酒蔵をそのまま資料館に転用した趣ある施設でありました。 「昔の酒蔵」沢の鶴資料館は、酒造りの歴史を現代に伝えるために、古い酒蔵をそのまま資料館として昭和53年11月に公開。昭和55年には酒造り道具と共に兵庫県「重要有形民俗文化財」の指定を受け、多くの方々に親しまれておりました。 残念ながら平成7年1月の阪神・淡路大震災によりいったんは全壊致しましたが、3年7ヶ月の歳月をかけ平成11年3月に復興再建。自然の恵みと先人達の知恵に培われた灘酒の伝統を今に伝えています。 沢の鶴資料館ホームページより引用 資料館の南からは、御影を経て魚崎まで連続する「酒蔵の道」のルートを東しました。都賀(大石)川を渡りますと、近代的な化学工場のごとき現代の酒造工場が林立するエリアとなります。更地となった土地の中には戸建て住宅団地の建築が進む一角も認められました。南に目を転じますと、ハーバーウェイを介して神戸製鋼所の施設群が建ち並んでいます。タンクの間の細い路地を抜け、清酒のケースが野積みされた一角を横目に、酒蔵の道を歩みました。
程なくして、「西郷酒蔵の道」として整備が行われた散策路に行き着きました。この遊歩道は、震災による被害を乗り越えて、西郷地域が酒造地域としての町並みを取り戻そうと、地域住民、酒造関連会社、そして神戸市とが一体となって整えられたものであるとのことです。白壁と木の壁とが組み合わされた落ち着いた雰囲気の壁が酒造会社の敷地に沿って設置されています。近代的な工場となっている酒造メーカーの施設や、遠方に望む高層住宅群などの囲まれながらも、そこは酒蔵が建ち並んでいた往時の西郷を穏やかに偲ぶことができるエリアであるように思われました。 その後も、和風の壁を前面に纏った酒造プラント群や傍らに佇む神社、ハーバーウェイを望む臨海部、前に迫る巨大な高層マンション群が展開する酒蔵の道の景観が連続していきました。灘をひいては日本を代表する大手メーカーの工場も多く軒を連ねていて、有数の酒造地域としての十分な迫力も感じられます。灘浜ガーデンバーデンや東接する高層マンション群の立地する一角に至って道は丁字路に突き当たり、高層マンション北側の街路へと進みました。そのルート上、地図には「浜街道」というバス停名が記載されており、興味を惹いたためです。
「浜街道」とは、灘三郷地域をはじめとした阪神地域の海岸部を通過していた主要道路です。京都を出発し西日本方面へと延びる西国街道のバイパス的な庶民の生活道路として、現在の芦屋市から分岐し阪神地域の沿岸部を通過、灘三郷の酒造地域を連絡しつつ、三宮神社付近にて再び西国街道に合流していたとされているようです。そのルートは明治以降都市化に伴う区画整理などによって大部分が現在の国道43号線のそれへと変化しています。新在家南町のこの「浜街道」バス停を含む区間は、このような変化の中にあっても旧街道の道筋が残されたものの1つであるということです。高層住宅群や大型量販店のあわいにあってアスファルトに覆われた都市の街路となったかつての浜街道の道沿いには、酒蔵をイメージした建物が数棟建ち並んでいて、酒造りに根ざした地域の伝統を感じさせる意匠となっていました。近づいてみますと、それは自転車置場や集会施設であるようでした。マンション入口のポケットパーク的な空間に設置されていたベンチは酒樽をわったようなアーチ状の壁を周囲に取り巻かせた、デザイン性に溢れるつくりとなっていました。
日もかなり傾き、薄暗くなった酒蔵の道と別れて、阪神新在家駅へと向かい、この日のフィールドワークは終了しました。行き交う人々も多く、活気ある都市近郊の住商混在地域の体をなしているように感じられました。酒蔵の道はさらに東へと延びて、2004年に辿った御影・魚崎へと続いていきます。近代都市のダイナミックな高密度の建造物に充填された空間にあって、歴史ある酒造地域としての佇まいを濃厚に残しながら有数の清酒生産を維持してきた灘三郷は、震災によって一時みずからのよりどころを失ったかのように見えました。しかしながら、地域の普段の努力によって地域は、極上の酒が醸すような芳しいいのちの輝きを徐々に取り戻しつつあるようです。いや、それは適切な表現ではないかもしれません。灘にはかけがえのないその灯し火がゆたかに息づいて、ひそやかに、かつしっかりとその焔を温めてきたのではないでしょうか。酒蔵の道は、そういった灘三郷の歩みを、酒処たる確かな「かたち」を今に記しつづける遥かなる道程ではなかったか、そう強く思います。 |
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