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高野山、遙かなる山上の宗教都市
2014年11月22日、初冬の高野山を訪れました。空海が開いた真言密教の総本山は、今日も修行の場として存立し1200年の歴史を伝えています。 電車とケーブルカーを乗り継いでようやく到着した山内は、厳かな空気に包まれながらも、「宗教都市」たる偉容を整えた町の姿を概観することができました。 |
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奥の院へ 〜空海が入定する聖域を歩く〜 2014年11月22日、難波駅を特急「こうや」で出発し、大阪府南部の郊外地域を縦貫して和泉山脈に分け入り、紀ノ川を越えてさらに深い嶺々に穿たれた峡谷に沿って列車は進んでいきました。高野山への参詣道は起点の異なる様々なルートが知られています。それらのルートは大阪府河内長野市で合流し、そこから紀見峠を越えて高野山へと向かいました。こうした経緯を踏まえ鉄路も敷かれたということでしょうか。現在は高野山への往来よりも大阪大都市圏への通勤路線としての比重が高くなっていまして、府県境を越えた和歌山県橋本市までもが大阪への通勤圏に含まれるようになって久しくなっています。終点の極楽橋駅からは鋼索線(ケーブルカー)に乗り換えます。ケーブルカーの終着駅・高野山駅からはバスを利用してのアクセスとなります。急勾配を乗り越え到達した高野山の山内は、これまでの行程が信じられないほど、平坦な地勢の中にありました。
高野山は、和歌山県の北部、1000メートル級の山々に囲まれた高原に位置する日本仏教の聖地です。816(弘仁7)年に空海が嵯峨天皇より高野山を下賜されたこの土地は、内八葉外八葉と呼ばれる山々に囲まれら盆地状の大地です。高野山という山があるわけではありません。八葉とは蓮華の花びらを指し、高野山を浄土のシンボルでもある蓮台とみなして、内八葉と外八葉を合わせた十六の山々を金剛界曼荼羅の十六菩薩に重ね合わせて、蓮の花で表現される曼荼羅の中心に高野山があると説明されています。高野山の山域は東西約6キロメートル、南北3キロメートルに渡るため、限られた時間内で多くを巡ることにしていたこの日は、ケーブル山上の高野山駅からバスにて高野山の最も重要な聖地の一つである奥の院を目指しました。 高野山には中心となる寺院である金剛峯寺をはじめ、塔頭寺院である子院が117か寺存在しています。高野山は「一山境内地」と称して、山域全体が境内地、すなわちお寺の内にあるということになります。お寺の中に商店街や公共施設が存在する、まさに「宗教都市」たる様相を呈しているわけです。このような形態の町は日本中探しても高野山だけなのではないかと思われます。そうした境内の中の町並みをバスは進み、その市街地が途切れる東端にある「一の橋口」で下車、奥の院への参道へ進みました。奥の院は空海が入定し、現在でも修行を行っているとされる場所です。一の橋は弘法大師御廟の浄域の入口にあたり、正式には「大渡橋」または「大橋」と呼ぶのだそうです。一の橋から弘法大師御廟までのおよそ2キロメートルの参道を歩きます。
杉木立が続く参道は冬の弱い日差しがわずかに差し込む、冬ざれた風景の中にありました。漆黒の柱のような杉林を背景に、紅葉した楓を透かす冬の日差しはまさに幻想的な光景を織りなして、幾星霜の時を超えてこの沈黙の季節を迎えた高野山再奥の厳かな雰囲気がいっそう身につまされます。参道の両側にはおびただしい数の供養塔が立ち並びます。多くの戦国大名や企業墓、そして名もない庶民が寄進したものなど、各時代の数十万基はあろうかという供養塔が、弘法大師の少しでも至近で供養されたいという願いを現世に伝えています。参道には「町石(ちょういし)」と呼ばれる道標が建てられています。その形状は五輪塔婆をなしていまして、壇上伽藍にある根本大塔を起点にして、弘法大師御廟まで1町(約109メートル)ごとに36基建てられているものです。また、紀ノ川沿いの高野山参詣道の起点にあたる慈尊院からも町石が同様の間隔で建てられていまして、こちらは根本大塔まで180基を数えます。これらはユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとなっています。 人々の祈りが凝縮したような、厳粛な空気に包まれる参道を踏みしめた先には、御廟橋があります。36枚の橋板と橋全体で金剛界37尊を表していると言われるこの橋を渡ると、その先は高野山で最も神聖とされる霊域となり、撮影も禁止されています。千年近く燃え続けているという「祈親灯」(「貧女の一灯」とも呼ばれます)と「白河灯(長者の万灯)」のほか、奉納された灯籠が灯る灯籠堂は、精神の世界を標榜し鍛錬を続ける空海の姿を象徴しているように感じられる場所です。灯籠堂の裏手には弘法大師霊廟を参拝できる場所があって、多くの参詣者が救いを求めて祈りを捧げていました。奥の院までの道のりは、私が訪れてきた国内のどの地域よりも異質で、この上ない清浄さに包まれた場所であるように感じられました。弘法大師にすがり、共にありたいと願った人々がまだそこにあるかのような、幻想の世界ではないかとも思われるような、不思議な風景の連続であるようにも思われました。 壇上伽藍へ 〜高野山の中心たる聖地〜 奥の院参詣後は、バスで再び境内の町並みを東へ戻り、高野山の玄関口に建つ大門へと向かいました。先述した町石道を辿り高野山の山域に足を踏み入れた参詣者をまず迎えるのが、この荘厳な佇まいを見せる大門です。一山の総門であり、高野山の正門は1705(宝永5)年に再建されたものが現存しています。朱色の門は周囲の紅葉とも絶妙なコントラストを見せていまして、1200年にも及ぶ高野山の悠久の時間を体現しているように感じられました。大門前から一段下って、高野山内の町並みを歩きます。境内の塔頭寺院の多くが宿坊を兼ねていまして、土産物などを扱う商店と隣り合うように並ぶ様子が高野山独特の景観を形成しています。 やがて左手に鮮やかな紅葉を道路側に纏わせた木立が林立するようになります。この杜に囲まれた場所が、空海が在世中に最初に堂宇を結んだ場所で、一段高い場所に広がる伽藍、壇上伽藍と呼ばれる、高野山の中心となる聖地です。その入口には開創1200年を記念し再建が進められ落慶を間近に控える中門が冬の柔らかな日差しを受けて輝いていました。1843(天保14)年の大火により、壇上伽藍の建造物は西塔のみを残して灰燼に帰した後も再建が行われていなかったという中門の横を通り、壇上伽藍へと歩を進めます。
中門の正面には高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきた金堂が建ちます(1932(昭和7)年再建)。年中行事の多くが執り行われるという金堂は、入母屋造りの質実な風情を漂わせ津建物で、隣接する輝くような朱色を発している根本大塔とは対照的に感じます。真言密教の思想シンボルたる根本大塔に対し、誠心で寄り添う大師の姿を現しているようなコントラストです。金堂の西側には、大師が高野山開創にあたり、高野山の地主神として丹生明神と高野(狩場)明神を813(弘仁10)年に勧請した御社(みやしろ)3棟(1594(文禄3)年再建)と、その拝殿である山王院(1594(文禄3)年再建)が杉木立の中に鎮座しています。その佇まいは、高野山が神域として開かれる前、未開の山中であった頃の風景を彷彿とさせます。 西塔(887(仁和3)年建立、1834(天保5)年再建)は、根本大塔と対をなす「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として建立し、大日如来の密教世界を具現化する目的でつくられたものであるとのことです。密教では中心となる仏である大日如来の説く真理を説明する際に、実践的・物質的な側面を表現する「胎蔵界」と、精神的・倫理的な側面を捉える「金剛界」の2つよって行うとされまして、この二つの世界を象徴する仏を双方の塔に安置することにより、密教世界の具象化を試みているということであるようです。孔雀堂、准胝堂(じゅんていどう)と続き、高野山で差重要の聖域とされる御影堂(みえどう、1848(嘉永元)年再建)。大師が住んでいたとされるお堂で、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安して以来、御影堂と呼ばれるようになったものであるとのことです。御影堂の前には、大師が唐から伽藍建立の地を占うために投げたという三鈷が掛かっていたという伝説のある三鈷の松があり、その背後には目映いばかりの根本大塔(876(常観18)年頃完成、1937(昭和12)年再建)が冬空に相輪を突き出していました。
壇上伽藍から東へ、国宝指定を受ける不動堂を一瞥して蛇腹路と呼ばれる参道を進み、金剛峯寺へ。高野山真言宗の総本山としてその中心となっている同寺は、明治元年に豊臣秀吉ゆかりの興山寺と青巌寺とが合併し金剛峯寺と改称したものです。先に高野山全体が境内地と書きました。これは総本山金剛峯寺という場合のことで、その境内の中に一寺院としての金剛峯寺があるということのようです。その後は北条政子が源頼朝菩提のために創建した金剛三昧院を訪れ、1223(貞応2)年建立という、高野山で最古の多宝塔を見学、高野山の訪問を終えました。 奥の院から壇上伽藍へとやや足早に訪れた高野山の風景は、初冬の穏やかな日和そのままのたおやかさに溢れていました。そして、厳しい寒さに打ち震える冬本番を目前に、いっときのあたたかさに包まれる季節の美しさをも内包しながら、幾星霜の時を超えて祈りを捧げる地域の清らかさをも体感することができたように思われます。それは、多くの人々の思いを受け止めながら、喜びの春を、猛々しい夏を、きらめく秋を、すべてが凍る冬を、しなやかに、そして厳格に享受しているかのようでした。 |
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