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シリーズ日本海縦走
※一部の写真は、列車内から窓越しに撮影したため、車内の事物等が窓ガラスに映りこむなどのノイズを含んでおります。ご了承ください。
2002年から2003年にかけての年末年始は、本州の日本海岸を南北に縦断しよう、という壮大?な思いつきのもと、私の「日本海縦走」はスタートしました。
12月29日、仙台を出発、「はやて」で八戸駅へ。そこから普通列車を、青森、秋田、酒田と乗り継ぎ、鶴岡で宿泊。 12月30日、鶴岡を出発、村上で乗り継ぎつつ、新潟へ。市内を軽く散策(といっても駅から万代橋までですが・・・)。その後、長岡、水上で普通列車を乗り継ぎ、一旦自宅へ戻る。 年が明けて1月2日、再び水上から清水トンネルを越えた私は、普通列車のみで行く予定が、越後湯沢で見た特急はくたかの誘惑に負け、富山まで利用し、富山市内を歩く。その後、福井、敦賀で列車を乗り換えつつ、小浜で宿泊。 1月3日、小浜を出発、福知山からいくつかの乗換駅を経て、松江駅前の変貌に驚き、さらに山陰線を西へ行って、10分足らずの乗り換え時間のなか下関駅でムーンライト九州に乗り込む。 1月4日、早朝に京都駅に到着、京都駅前から東山方面を散策(「シリーズ京都を歩く」にて詳細をご報告いたしております)。午後10時過ぎ京都駅前発の夜行高速バスに乗り込む。 1月5日、太田市に戻る。 これだけの道程をただだらだら書いてもおもしろくないですので、印象に残った部分だけをピックアップして、メッセージ集としてまとめ、「シリーズ日本海縦走」をお送りしたいと思います。 |
訪問者カウンタ ページ設置:2003年9月11日 |
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(1) 北へ、はやて 〜東北新幹線をみつめなおす〜 だらだら書かないといいながら、やはり初乗車の「はやて」も含め、東北新幹線の車窓風景に感動したので、このあたりを日本海縦走への導入として書きたいと思いました。 仙台での学生時代、帰省の友は青春18きっぷであった私にとってはあまり利用することはなかった東北新幹線ですが、それでも時間がないときや経済的に余裕があったときは利用していました。今回、新規開業分も含めて小山以北に全線乗車する機会を得て、冬の東北新幹線の車窓風景に改めて感動しました。12月28日、快晴。 小山〜宇都宮〜那須塩原 男体山を中心とした日光方面の雪山が美しいですね。上州からは、男体山の“裾”のほうは見えませんので、感慨はひとしおです。宇都宮の市街地を過ぎると、那須方面の眺望もいよいよ美しくなります。日光連山と併せ、この地域の二大ランドマークとなっています。広い土地、屋敷林の豊かな緑。丘陵の裾に寄り添うように連なる集落に、時折開発された工業用地、団地。これらが次々に車窓の向こう、いれかわりながら、那須野の大地は展開します。那須野が原は、広大なたおやかな土地に、木々が転々とあり、時に壮年期の丘陵地を浅い谷が刻む谷地の景観ある中に、スポット的に市街地が発達する場所です。森林も豊かな、緑地景観がすてきな土地であるように思います。
那須塩原〜新白河〜郡山 黒磯を過ぎ、那須野が原は徐々に関東と奥州とを分ける標高の低い山地へと入っていきます。このあたりから、田や屋根にうっすらと雪が見られるようになります。森の密度が増し、空の青さ以上に、川面を流れ落ちる水のクリアな青さが美しい。群青色の水面が、冬の日光をきらきらと返しています。新白河あたりでは積雪が5センチメートルくらいあるようでした。北側から眺める那須連山も青空の下、鮮烈で美しいですね。郡山付近も、相変わらず積雪が残ります。成長著しい市街地の向こう、安達太良山の山容が美しく見えました。
仙台〜盛岡 奥羽山脈の向こうは、ライトブルーの空の下、かすんでいました。山自体もうすく雪化粧した裾模様を残してやはりかすんでいます。それは、岩手山も同じ。ただ、そんな中でも北上山系は対照的によく見え、後方に雪をかぶった早池峰が控えていました。 水の都盛岡の市街地を通り過ぎると、美しいみちのくの山河が実にたのもしく、悠々と展開していきます。周囲の水田は雪を纏って白一色に輝き日の光を反射しています。堆積性の台地がゆるやかに刻まれた壮年期の地形や、それをするどくかつおだやかに奥へ入る谷地、冬枯れの木々が寒々しさを呈しつつも晴天のもとのびやかに繋がる丘陵地の息づかいなどが、とてもはつらつと感じられました。
八戸駅は、新幹線開業の活気に溢れていました。本来の市街地からは離れるため、市街地は低密度に展開するものの、駅に隣接したホテルやレストラン、郷土文化の紹介コーナーなどが集合した施設“ユートリー”(八戸地域地場産業振興センター)などができ、発展性は大きいように思われました。 青森行きの普通列車は、晴天の八戸周辺を行きます。しかしながら、下田駅付近からうっすらとした白い雲が上空を覆い始め、雪が突然に舞い始めました。それはほんとうに突然の変化ではあったのですが、周囲が既に雪景色だったことも手伝って、ごく自然に、雪の世界へと遷移していった印象でした。南部から津軽へといった世界観を感じるものとなったのかもしれません。八戸、野辺地、青森と進むにつれてその雪は次第にその量と風力を増し、まさに「青森駅は雪の中」といった風情になっていたのでした。 |
bridge#1 出羽、日本海岸の冬 出羽の冬は、雪に染まる 家も、谷も、瀬も、例外なく 風さえも、雪色に描き出される 広大な白い、白い大地 はらはらと、舞う雪 風に浮かんで、流れ、飛び、空(くう)を回る、雪 枝いっぱい、体いっぱいに、木はそれらを受け止める 刹那、雲間から、ひかりがこぼれる 雪はその一瞬、かがやきをまとい、きらめく 海はあれくるったままで 島はそこにたたずんだままで 庄内平野は、雪がいっぱいにしきつめられた、豊穣の大地でした。水をこんこんと湛える最上川、じっくりと腰を据える鳥海山、それらにも負けない力強さとたおやかさとを備えた、魅力的な丘陵たち。 出羽と、越後とを分かつ笹川流れは、車窓からの日本海が美しい場所の1つですね。12月30日は、曇りから、晴れ。沖には粟島の姿が、間近に眺められました。
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(2) 越後平野、冬晴れ 〜ドラスティックに変わる銀世界〜 村上の市街地を過ぎると、視界が一気に開けてくる感じですね。笹川流れあたりの、狭隘な低地に、黒い瓦と板張りの家々が身を寄せ合うように建てこんで、その背後、逼りくる斜面との間、猫の額ほどの土地にわずかに耕作がされるといった景観を見つづけてきた後だけに、爽快感のような感情すら湧いてきます。もちろん、笹川流れあたりの集落景観も、実に味わい深く、魅力に溢れたものではあるのですが。 時間は午前9時20分位。この頃から日差しが増えて、この日の新潟は、3月を思わせるような、青空。遠くにたなびく穏やかな稜線の山々の青さに、冬の青空のすがすがしさが重なり、うっすらと雪化粧した、岩船地域の水田はそれらの輝きを一身に受けて美しいことこの上ない。沖積地の卓越した銀世界のなかで、集落はしっかりと微高地を指向してつつましく連なっていましたね。
新発田、東新潟と行くにつれて、雪は少なくなり、正午近くに降り立った新潟駅前は、全く雪はありませんでした。気温も5℃近くもあり、雪融けの時期を思わせるような小春日和でした。本来の新潟市街地とは信濃川を隔てて対岸にあるこのあたりの旧称は、沼垂(ぬたり、現在はぬったりと読むようですが)。現在では万代橋のたもとまで切れ目無く高層建築物のつづく近代的な町並みです。 やがて、新潟の市街地の入口、万代橋へ。このあたりの信濃川はゆったりと、ほんとうにゆったりと構えていて、美しいですね。新潟の市街地に、やはりこの信濃川のウォーターフロントは不可欠であるのでしょう。すぐ北側には昨年5月に架橋された柳都(りゅうと)大橋や、コンベンションセンターなどを備えた「朱鷺メッセ」などがすてきな都市景観として川面に調和した雰囲気を与え、新潟の水辺は市民の憩いの場として、集いの場として、変化を遂げていくのでしょうね。
新潟を出発して、長岡駅行きの普通列車で越後平野の只中を颯爽と進みます。亀田、さつき野、新津、古津と、全く雪のない地域が連続します。広々とした水田地帯を進んだり、さつき野ニュータウンのような団地を行過ぎたり、竹やぶや落葉樹が主体の屋敷林を伴った奥ゆかしい昔ながらの集落を貫通したりと、注意して眺めていると、越後平野はほんとうに様々な表情を見せてくれます。中には梨畑や蓮田なども広がっており、米どころとはいえ減反とは無縁ではないことを思い知らされます。また、長岡あたりまでは視界がほんとうに開けますので、遠く弥彦山や国上山方面の丘陵地も望むことができます。 三条あたりまで来ると、見事に銀世界が復活します。新潟から長岡にかけて、視覚的には地形的な条件に差はないと思われる沖積平野が連続するにもかかわらず、下越と中越という地域区分の妥当性を雪の被覆状況は実に素直に体現していました。長岡駅前には、花火玉をモチーフにしたかわいらしいモニュメントがあり、妙に感動しました。
宮内駅を過ぎて、上越線へ。上越線の沿線は、雪、雪、雪、ほんとうに、すべて「雪の中」。雪というプロパティに、見事に統一された、景観が眼前に広がる。越後をはじめとした豪雪地帯にあって、雪は時に人間に対して牙を剥くおそろしいものであるのかもしれませんが、これほどまでに風景を見事にまとめあげ、冬という季節を象徴する「情景」にまでさせてしまう存在は無いのではないだろうか。浦佐、六日町あたりからは、快晴の空の下、越後駒ケ岳や八海山などの雪山が、麓の銀世界とあいまって、極上の冬絵巻を演出していました。
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bridge#2 親不知〜雪と、風と、微光と〜 湯沢、六日町、十日町と 雪にうずもれた大地を抜け、直江津の街を過ぎて 青灰色の空の下、海岸を洗う波は猛々しい 波のつくる“ひだ”が折り重なり、白い飛沫をまたたかせながら その水泡にも負けない白さを呈する雪の礫をまとわせながら 大地と海とが、隣り合わせに対峙する場所 糸魚川で穏やかだった風雪も、ここでは再び激しくなっている 曇色に構える日本海をみやって 西へ流れる自らのありかは、いかに小さきものなのか・・・ 水平線の彼方、青空がのぞく 微かな光の生じる彼方の海原に希望を託して 冬の大地は、春を待ちわびている
特急はくたかに乗車しての車窓からの景観であったので、各地の天候がどれほどまでその土地の地形的な要素に起因したものであるかは定かではないものの、ひたすらぼたん雪の降雪に見舞われた豪雪の湯沢、六日町、十日町、雪はかすかに舞いつつおだやかな曇天の下の直江津、糸魚川、そして荒波と風雪とに描写された親不知。何か、それぞれの土地の姿を暗喩しているようで、ひとしおの感慨を覚えました。また、親不知付近でも、わずかな平坦地には集落と耕地とが開かれていました。 |
(3) 富山雪景色 〜雪の松川沿いの景観〜 黒部川の扇状地のあたりから雪は小止みになり、ほどなくして到着した富山の町は、小雪の舞う空模様でした。以前富山に立ち寄ったのは、金沢旅行の帰路で、6〜7年ほど前だったと記憶します。この頃には、すでに駅北側の再開発されたと思しき高層建築物群(富山市芸術文化ホールやタワー111などがある一角)が燦然とその存在感を主張していましたが、それは今にあっても同様のようで、駅北側を(あるいは、富山駅周辺地域全体を)象徴する、現代の富山の顔であるのかもしれません。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんを祝福する横断幕が飾られた改札口を出て、富山の街歩きをスタートさせます。 富山駅南口は、駅から放射状に主要な街路が出発しています。そのうち市電は新富町方面から駅前をかすめて、東方向をカバーしています。まずは、富山城址公園方向へ、市電は敷設されていない桜町通りを進みます。新潟のように主要街路の両側を埋め尽くすようなビル群が席巻するといった都市景観ではなく、中高層の建物が秩序よくならぶ、どちらかというとゆったりとした町並みですね。エクセルホテル東急の建物だけが例外的に巨大な建物となっており、庶民的な町の中で際立って屹立しています。
やがて、さまざまな形の建物を集合させた、立体的な構造をもつ現代的な感覚の風貌の富山市役所前へ。道の向こうは、富山県庁。付近には、県民会館もあり、行政関連の庁舎が集積しています。その市役所の南に、西から東へ流れるのが、松川の流れです。この川は、富山市街地の中にあって、一際まちにうるおいを与える緑地・水辺となっていて、ゆたかに木々が植えられています。また、さまざまな彫刻作品もふんだんに配置されていて、ちょっとした芸術的な空間としても味わえるような趣向になっているようでしたね。そんな松川沿いの河川公園を過ぎて、まだ少数の人しか踏みしめていないふかふかの雪の堆積した富山城址公園内へ。 この公園も、すぐ北の松川沿いの緑地と一体的な緑地帯として見事なまでにこの町の落ち着いた雰囲気を盛り上げているようで、その穏やかな佇まいは、雪景色のえも言われぬ美しさともあいまって、富山の初春の静けさを演出していました。城壁も、富山市郷土博物館となっている富山城の一部も、慎ましい容貌をしていまして、春の桜の季節、初夏の新緑、秋の紅葉と、きっとそれぞれの季節で美しい庭園となるのだろうと想像しました。
公園を西へ横切り、市電通りを南、西へ進み、富山大橋の橋上へ。この橋のかかる川は、神通川。常願寺川とともに、富山平野を貫流する主要河川ですね。この川によって、とりあえずは富山市の中心市街地は途切れ、西側にはたおやかな呉羽方面の丘陵が横たわっています。この日は、冬の曇天下。それ以上の見通しはきかないですが、好天時には、神通川の流れの彼方、きっと麗しい山岳の眺望が望めるのでしょうか?神通川に向かう途中、飛行機が上空を刹那通過しました。そう、富山空港は神通川に沿って立地していましたね。 神通川を一瞥した後、再び市電通りを東に進み、程なくして到達する松川にそって駅方向に戻ります。城址公園付近だけでなく、松川は市街地を流下する部分全体が彫刻を含む河川公園として整備されていて、何度も言いますが、ほんとうに景観がすばらしいですね。時折強まったり、弱まったりする雪の中、それらにくるまれた水辺の美しさは、最高でした。また、「舟橋」という橋には、欄干に船の舳先がデザインされていたり、ところどころに階段状に水面に近づけるポケットパークも作られていたり、また愛嬌あり、造形的なものありの彫刻たちが存在したりと、視覚的に、また感覚的に、楽しめる趣向が、いっそう水辺の空間を魅力的なものにしています。また、船の形をモチーフにしたと思しき「サンシップとやま」や、青い球状のモニュメントが飾られた北日本新聞社前の空間など、市役所の斬新な建物とともに、相対として落ち着いた富山の街の中にあって、絶妙なアクセントになるような造形・建築も多く配されていて、富山の違った一面を作り出しているのでした。 再び駅に戻った時は、雪はか弱い旋律を残した音楽のような感覚になっていて、そんな富山のまちをやさしく包み込んでいるように思われました。
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bridge#3 北陸の冬アラカルト 高岡 座った、北側のシートから見た車窓の外の高岡は、 駅の傍まで民家が密集した、 穏やかなたたずまいをみせる町でした 雪の白と、雲の灰色のなかで空と地上とが境界でかすんで 初春のまちはしずかな表情を見せていました 福井 駅は、連続立体交差化に向けて工事中 西口側の町並みは、アーケード街が続く落ち着いた雰囲気 “ようこそ福井市へ2003年” という電飾のもと 駅前のロータリーからの眺めは、アーケードなど視界を狭める事物のせいか、 どこか窮屈な感じの雰囲気になっている アスファルトに埋まりそうな、路面電車のレールが、そこにはありました 小浜 夜更けに、小浜の駅前に到着 小浜線の車窓からみた残雪の量は、この町に近づくにつれて少なくなり 駅前は、雪は全く無かったと思います 人通りはほとんど無く 駅に向かってやはり放射状に付けられた街路とアーケード街 ここから若狭湾に向けて、おだやかな町が続いていた そして、ここから多くの物資が京へ向かった |
(4) 山陰横断 〜北前船の軌跡を感じて〜 1月3日、朝6時30分。薄明の小浜は、張り詰めた空気と藍色の空の下、静まり返っていました。市街地に、ここから若狭街道(別称、鯖街道)が始まるとかかれた看板があります。今でこそ、若狭地域の中心地という役割に納まっているこの町ですが、ところどころに北前船による繁栄を伝えるエッセンスがつたわる、味わいのある町です。 最初の乗換駅である東舞鶴までは、時折海が見え、リアス式海岸の特徴的な景観が展開します。浦々のしずかな砂浜に面した慎ましい集落には、心なしか黒い瓦で、鬼瓦あるいは鯱鉾にも似た突起を有する民家が立ち並びます。これらの小さな湾が過ぎて山間に入ると、湾は谷地となってまた違った車窓景観を提供してくれて、そういった山の中や、谷地における小規模な水田の様子も、とてもバランスがいい風景だな、と感じました。 大飯町付近から、西方に整った三角錐の山がリアスの半島群の作る稜線の彼方に顔を出しました。雪がほとんど消えてしまった道路とは対照的に、この山はまだたっぷりと残雪を体にまとっています。加斗付近、若狭本郷付近、若狭高浜付近と、その山は海のかなた、美しい集落の向こう、低い丘の向こうに、このあたりの山々の中では明らかに突出した形状を呈するその山−青葉山−は燦然としていました。その青葉山を正面に見るあたりから、列車は舞鶴市内へ入ります。 舞鶴は、以前中国山地、蒜山を旅した際に、高速バスで到着した場所です。正確には、東舞鶴とすべきですね。ここは、地図で見ても、実際に行った感覚でも、本当にそれぞれに独自の市街地を持つ、東舞鶴と西舞鶴とで成り立つ二眼レフ的地域構造を持つ町ですね。両市街地間には「中舞鶴」なる市街地もあるようですが、列車から見た感覚では、西と東を分かつ尾根はそれなりに急峻で、両市街地の連担を拒んでいる様子が実感できました。東舞鶴は海軍の軍都としての発達により形成された市街地、西舞鶴は北前船の寄港地、城下町としての起源をもつ市街地、この理解でよろしいのですよね。東舞鶴では、昨今は赤煉瓦の倉庫群が新たな観光スポットとして脚光を浴びているようですね。 東舞鶴、福知山と列車を乗り継いで、山陰本線に入っていきます。以前播但線から山陰線に入り、京都まで乗車したことがある私にとって、福知山から夜久野にかけての景観は、おだやかな丘陵地あり、落ち着いた風合いの集落あり、水田あり、竹林あり、川がありと、美しい山里の景観が展開する、お気に入りの場所の1つです。川に接してその向こうに集落と耕地、丘陵が続く下夜久野、家々が間近に逼って山里の雰囲気が沸き立つような上夜久野と、それぞれに個性があって、実に心が落ち着いてまいります。そして、今回はさらに素晴らしい発見にも恵まれました。兵庫県に入り最初の梁瀬駅に到着する間近に、南側に俯瞰した矢名瀬(駅名と地区名とで漢字が違ってるんですね)の町の景観のすばらしいこと。山の間のまとまった面積をもつ平坦地が、黒い屋根の家々によって埋められています。しかも、それらがいかめしさを出しているというのではなく、その統一感が周囲の自然と実によく調和して、ゆたかな町並みを作っていたのでした。私が最も魅力を感じている地域の1つである、丹波、但馬なども含めた中国山地の地域なのですが、この町並みも、ぜひ一度この足で歩き、この目で見て、感じてみたい。そう思えるくらい、すてきな町並みが、そこにはありました。 豊岡でまたまた列車を乗り継ぎ、山陰線は初めて日本海に出会います。豊岡から城崎にかけては、円山川の穏やかな流れに沿って列車は進みます。城崎の街を過ぎて、その河口まであと5キロというところで、山陰線は西へ方向を変えて隣の竹野町へと進みます。その最初のトンネルは、日本で唯一「日和山」の名がつくのだそうです。日和山とは、それぞれの津々浦々において、航海に出る前に船乗りが海の様子を確かめるために上った低い高まりのことです。海から内陸に入った城崎にまで日和山があることは、この地域における海運の往時がどのようなものであったかを暗に示してくれているかのようです。 竹野駅を過ぎると、切り立った岩のような陸地の間に海が垣間見られるようになり、鉄路は微細に刻まれた谷地と、その間の尾根とを交互に通過していくようになり、トンネルも多くなります。美しい日本海の眺めや、黒に一部朱色の混じった重厚な瓦屋根を持つ板塀の家々が軒を連ねる慎ましい集落景観が連続する一方で、わずかな平地に開墾された谷地の水田などはかなり耕作放棄が進んでいる様子でした。こういった谷地の水田が連続する光景も、この地域ならではの景観として、今後とも維持されていって欲しいとも思いました。 やがて、北前船の交易で賑わった香住の浦へ。ここは、周辺の小ぢんまりとした湾より一回り大きい入り江が発達しており、集落の規模も大きくなっています。列車は町に微妙に接近しつつ駅に入り、その後町を俯瞰するように山際を駆け上っていきます。その後、鎧、余部の集落を眼下に見ながら、日本海の海原と肩を並べながら、列車は山陰海岸国立公園に指定された海食海岸を縫うように行き過ぎます。海は、灰青色にたゆたい、切り立った崖下では、荒々しい波が白くあわ立って、弾けて、水面にかえっていきます。餘部鉄橋は、聞きしにまさる高さですね。橋脚のたもとには、事故の犠牲者を慰める観音像が建立されているとのこと。
列車が次の乗換駅である浜坂駅に到着する手前、山の中に佇む集落の中に、出雲大社の社殿を髣髴とさせる、立派な結構のお社が見えました。このあたりにも、日本海を通じた交流の歴史が感じられますね。 鳥取駅で更なる乗換えを行った後、列車は一転して砂丘が発達するくらい、入り江などの湾入が少ない海岸を、海に近づいたり、内陸に入ったりしながら進んでいきます。ただ、黒瓦に板塀という住居のスタイルは、穏やかな丘陵地を遠くに望みながら水田が広く展開する因幡・伯耆にあっても健在なようでした。とはいえ、風待ち港としての浦が乏しいのと、鳥取藩の藩政が交易に消極的であったことなどから、北前船はこの地域を敬遠していたようです。 大山町から淀江町あたりに来ると、弓ヶ浜の砂浜を介して、地蔵崎から美保関あたりの影をしっかりと望むことができました。それは、圧巻でした。ただ、冬の曇天の下、大山方面の視界は全く開けませんでしたね。程なくして到達した米子は、曇り空の下、おだやかな町並みをしていたように思います。ここでも、乗り換えです(泣)。 バスターミナルの整備、市内を循環するバスの設定など、駅前がより機能的に、整然とした雰囲気になった感のある松江の駅前を散策しつつ、山陰本線のさらに西を目指しました。列車は程なくして、海のような宍道湖の湖岸に達します。やわらかい雨降りのなか、岸に近い湖面では、点々と鳥たちが羽根を休めています。波は小さく、灰色に、雲の色を映すがごとく沈む湖は、その雨をしずかに受け止めているようでした。反対側の岸も、空気の中の幾重もの水の幕に包まれて、島根半島の山なみの連続が空の色の中にかすんでいるようで、さながら幽玄の世界を体現しているかのようです。斐伊川を渡ると、出雲市の市街地に到達します。出雲の高度な文化が花開いた一帯は、豊かな穀倉地帯となり、鼻高山から日御崎へと続く丘陵のふもとにゆたかな景観をつくりだしているのでした。 出雲市を過ぎると、再び入り江と岬とが交互に連続する海岸線の卓越する地域−石見−に入っていきます。日本海は夕刻ということもありますが、全体的に暗めなブルーに染まるものの、岸に近い部分は砂浜の色を反映してか、心持ち明るめの色彩になっているように感じられます。五十猛、馬路、温泉津、江津、都野津・・・、いずれも北前船の寄港地で、浦々には廻船問屋が勃興していました。温泉地とのかかわりで思い起こされる温泉津ですが、1300年の歴史を持つ港町としての伝統も濃厚で、小さな湾に面して味わいのある集落景観を現在に伝えています。
その後も、竹林や小さな水田などに囲まれた谷地を過ぎ、たおやかな丘陵地を跨ぎ、小さな河川が流入する湾に接し、風光明媚な海岸の集落を横に見やりながら、列車は進んでいきました。そして、それらのまちのほとんどは、日本海という海の道を通じて密接なつながりを持った、海と陸の、船と船との、そして人と人との重要な接点だったのです。 江の川の三角州に発達した江津のまちの風景を楽しんだあたりからは、すでに周囲はかなり暗くなってしまいました。浜田、益田、長門市で列車を乗り継ぎつつ、夜の車窓の彼方に、日本海のさざなみを感じながらの旅を続けました。時間がかかるかもしれませんが、今回列車で行きすぎた道程を、自らの足でぜひ感じてみたいと心から思います。 |
シリーズ日本海縦走 おわりに これまで、今年の年末年始に本州の日本海沿岸を縦断したときの感想などをまとめてきました。そこで、私が感じたい、考えてみたい、と思っていたのは、「環日本海文化圏」の雰囲気でした。電車で刹那通過するだけで、ちゃんとしたフィールドワークではありませんが、何かヒントになるようなものを、些細なことでもいいので、つかみたい。そういった衝動に駆られたままの、彷徨でした。 八戸から青森に向かう間、突然にかつ穏やかに変化した天候、時折かすかな天子の梯子が降りながらも、自在に速度を変える雪、下越と中越との間の微妙な地勢の差を体現していた大地、穏やかな町並みが芸術的な雰囲気の中で融けあう富山の町並み、内陸の小さな盆地にひっそりと存在した美しい町並みのまち、そして山陰を通じて多様に展開した日本海のある景観。すべてに対して、新鮮な驚きを感じ、そしてとても詩的な気持ちになれたのでした。 今回、日本海世界という同質性を表現するための軸として、意識的に取り上げてきたのが、「黒い瓦、板塀の家々がまとまった集落」でした。この形の集落景観は、笹川流れから南は温泉津、江津あたりまで、かたちや表情を微妙に変化させながら、日本海の海岸に連なっていたのでした。 そして、そういった日本海に面した浦や港の多くは、北前船による交易に代表されるように、古くから日本海沿岸の交易ルートによって、有機的に結び付けられてきた場所なのです。何の変哲も無い、小さな、しずかな佇まいを持つ湾でも、江戸期から陸上交通が台頭し始める明治中期くらいまでは、活気に溢れた寄港地であった、という場所も少なくないようなのですね。現在ではその海でのリンケージ往時の面影は既に無く、それぞれの町は母なる日本海という道を失ったのでした。 「環日本海」というキーワードは、日本海側の地域に行くと、ホットな言葉であるようです。富山や松江の書店では、現に複数の書籍が売られていて、その中の一部を手に入れてきたのですが、もはや過去のさび付いた海の道による文化を、現代にマッチした地域づくりに生かす方法は・・・、現段階ではその問いに答えることは難しいかもしれませんが、この「環日本海」という言葉に託された熱いメッセージを再確認する旅であったのかもしれません。ふと、こんなことが頭に浮かびました。 「北前」とは、瀬戸内から畿内にかけての廻船問屋が、日本海を指して呼んだ言葉なのだそうです。出羽や越後の廻船問屋は、「北前船」という言葉は使わず、「弁財船」または「ベザイ船」などと呼称したようですね。つまり、「北前船」は、下関を回れば、瀬戸内を介して大坂、そしてこの西廻り航路を開拓した商人のふるさと近江に繋がっているわけですね。この瀬戸内の海事関連の文化史も、興味深いテーマになりそうです。 以上、最後まで断片的でまとまりはありませんでしたが、このシリーズは一応締めたいと思います。 シリーズ日本海縦走 −完− |
<謝 辞> この「シリーズ日本海縦走」は、グリグリさんが運営されている個人サイト「都道府県市区町村」コーナーの掲示板である、「落書き帳」の中で連載させていただいたものです。グリグリさんには、たいへんお世話になりました。謹んで御礼申し上げます。 |
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