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岡山・吉備路ノスタルジック・ウォーク
早春の岡山・吉備路を歩きました。活気の溢れる都会の巷、のびやかな都市景観、そしてたおやかな田園風景の広がる吉備路。心の底からにじみ出てくる、どこか懐かしい、穏やかな、あたたかな気持ちに包まれた、吉備路散策となりました。 |
岡山城と旭川 (岡山市後楽園/丸の内二丁目、2005.2.12撮影) |
後楽園 (岡山市後楽園、2005.2.12撮影) |
岡山市街地と旭川 (岡山市丸の内二丁目、2005.2.12撮影) |
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旧山陽道(西国街道)を追って 岡山駅西口の程近く、奉還町(ほうかんちょう)の商店街があります。「西口筋」と呼ばれる大通りに面し、「パサージュ奉還町」とか、「りぶら駅西」といった現代風のキャッチコピーを入口に掲げた商店街は、朝の開店前、ひそやかな雰囲気に包まれていました。「りぶら(奉還町りぶら)」は、1998(平成10)年に完成したコミュニティーホールの名前です。商店街は花屋や八百屋、本屋、食堂など一通りの商店や飲食店がそろっていまして、その庶民的な雰囲気はたいへん親近感を覚えます。高度成長期にこの街を闊歩していた人の目には、もしかしたら寂れたという印象に映るのかもしれません。商店街を自転車でさっそうと、多くの市民が通過しています。店先に商品やディスプレイを並べ始める商店主たちの姿も多く見られます。きっと昔ながらの得意先を多く抱えて、地域に密着した商売を行う店も少なくないのでしょう。フリーマーケットの開催を告げる商店街の広告が掲げれた向かいでは、先日合併により「吉備中央町」になったばかりの、旧加茂川町の産直商品・特産品を扱うアンテナショップ「加茂川町ふるさと交流プラザ」があり、新鮮な野菜などを求める買い物客が訪れていました。 奉還町は、かつての山陽道(西国街道)のルート上にあたる、伝統的な商業中心です。奉還町を通り抜けた街道筋は、現在山陽本線などの鉄路によって駅東側の市街地とは分断された形になっています。鉄路を横断する個所には、鉄路の東西を連絡する通路がつけられているのは、こうした通りの伝統性・重要性を繁栄したものであるのかもしれませんね。歩行者と二輪車とがそれぞれ専用のルートを通りますので、たいへん通行しやすい連絡道路でありました。駅の東側に入り、奉還町から続く道路沿いを東へ歩みます。西川緑道公園の手前で旧街道は南へ折れて、現在市内電車の通る目抜き通り(“桃太郎大通り”)と重なります。企業の本支店などのオフィスビルや商業ビルが林立する大通りは岡山駅と後楽園・岡山城との間を燦然と貫く主軸となっています。車道30メートル、歩道両側10メートル、合計50メートルという大通りは、岡山市街地のシンボル・ロードして、圧倒的な存在感を持っています。カラフルなデザインの市内電車が中央を走り抜ける風景も壮観です。パープルのまるい外観が美しいシンフォニーホールは桃太郎大通りの東詰近くにおけるランドマークとしての落ち着きある風合いを持っているように思いました。
岡山市街地最大かつ伝統的な中心街「表町」は、さまざなな表情をもった、個性的なデザイン性が好印象の商店街です。桃太郎大通りに面する北側から南へ、上之町、中之町、下之町、栄町、紙屋町、西大寺町、千日前、新西大寺町(「表八ヶ町」と通称されます。この愛称が生まれたのは明治36年;1903年と言われているそうで、当初の八ヶ町には橋本町(京橋町)が入っていましたが、後に抜けて変わりに千日前が加入し、現在に至っているとのことです)とブロックごとに個性的な名前で呼ばれているようです。各町の入口や天井から吊り下げられた看板等には、「上之町」とか「西大寺町」などと掲げられていまして、現在においてもそれぞれの町名は親しまれているように感じられました。なお、住居表示上は、表町一〜三丁目として整理されています。天蓋を透明にして燦燦とやさしい日の光が差し込む穏やかなつくりであったかと思うと、ステンドグラスをはめ込ませた天井のアーケードに変わり、そして再び透明な光が頭上から溢れてくるといった感じで、床もベージュ色やレンガ色などいろいろな色彩に包まれる、センスの良い商店街の佇まいです。中央にはプランターに鮮やかな春の花が植えられたものが一列に並べられていて、こういった演出も見事です。店舗も昔懐かしい雰囲気の古くからの商店からデパート、現代的なショップまで実に多様なラインナップです。 表町の繁華街となっていた西国街道は、円く天井がくり貫かれたような広場に時計台が屹立する西大寺町の交差点を東に進み、京橋へと至ります。西大寺町という名前は、城下町造営の際、西大寺(現在の岡山市西大寺)門前の有力商人が移り住んだことに因みます。西国街道の道中筋も、城下町建設に伴い、岡山城下、表町筋を通過するコースに改められたものであるのだそうです。城下町の建設は江戸期より古く、戦国期、備前を制圧した宇喜多直家が1573(天正元)年に岡山の地に移ったことに始まるようです。この時、西大寺の商人も呼び寄せられました。その子秀家は岡山上の拡張整備、先述の西国街道の付け替えなどを行って城下町整備を推し進め、1598(慶長3)年に完成をみました。この城下町が、今日の岡山の市街地の基礎となっているというわけですね。
旧西国街道は、城下通りを南下してきた市電を再び招き入れ、京橋へと向かいます。京橋西詰には岡山市道路元標や岡山県里程元標などがあります。これらの存在は、京橋付近は水陸交通の要として栄えていたことを今に伝えています。旭川の河道整備や西国街道の付け替えに、上述の宇喜多秀家は8年の歳月をかけたといいます。旭川には、京橋、中橋、小橋と3つの特色ある橋が連続して架けられています。それぞれに個性的な橋たちは、市電をはじめ、現代においても多くの人々を迎え入れています。表町の町並み、旭川の穏やかな流れ、そして400年近くにわたり都市の動脈として活躍する京橋・中橋・小橋そして西国街道筋などの街路は、歴史の積み重ねを随所に感じさせつつ、現代岡山の活気溢れる趨勢を強烈に印象づけているように思いました。 (「後楽園・岡山城を歩く」へつづきます) |
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