Japan Regional Explorerトップ > 地域文・中国地方

岡山・吉備路ノスタルジック・ウォーク

        


岡山城・後楽園を歩く

岡山城は、旭川のゆるやかな流れのつくるカーブの先に、その穏やかさそのままに、そこにありました。三層六階の天守閣は、外壁の下見板が黒塗りであったことから、「烏城(うじょう)」の別名で親しまれました。岡山城とその城下町を完成させたのは、宇喜多直家・秀家親子であったことは既に述べました。岡山城の築城は、1597(慶長2)年。現在の天守閣は1963(昭和41)年に再建されたもので、1945(昭和20)年6月の戦災による焼失の後のことでした。壮大で華麗な城下町、城郭を建設した宇喜多秀家は、1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦で西軍に属し、除封。以後小早川家、池田家の治世となります。旭川は、長い長い時間の流れを刻むがごとく、悠然と流れたゆたう傍らには、ドラマティックな歴史を刻んだ“烏城”が変わらぬ美しさをみせてくれています。

岡山城・月見櫓

岡山城・月見櫓
(岡山市丸の内二丁目、2005.2.12撮影)


岡山城(烏城)

岡山城(烏城)
(岡山市丸の内丁目、2005.2.12撮影)




岡山城天守閣より旭川・後楽園を望む
(岡山市丸の内二丁目、2005.2.12撮影)
後楽園・井田(せいでん)と唯心山

後楽園から岡山城を望む
(岡山市後楽園、2005.2.12撮影)

岡山城から旭川を挟んで対岸には、後楽園の庭園が広がります。岡山城天守閣からは、旭川に沿って豊かなみどりに縁取られた後楽園が眺望できます。旭川を介して眺める岡山市街地もまた、拠点性の高いこの町の趨勢が伝わってくるような臨場感があります。後楽園の向こう、なだらかに展開する山々に接して連担する町並みもまた格別です。歩きながら町を散策するにはちょうど良い距離感の市街地にあって、これほどまでに気持ちがやすらげる都市景観を併せ持つ町というのは、そうないのではないのかなとも思えます。桃太郎大通り〜表町という都市の主軸と、旭川から後楽園、烏城公園という自然・緑地・水辺という優しいみどりの軸線とが、人々の歩幅や視線の高さにしっかりとマッチしているように感じます。これこそ、岡山市街地が持つ「親近感」であるのかもしれません。

鶴見橋と旭川

鶴見橋と旭川
(岡山市後楽園、2005.2.12撮影)


後楽園

後楽園、芝生の庭園
(岡山市後楽園、2005.2.12撮影)

後楽園・茶畑

後楽園、茶畑
(岡山市後楽園、2005.2.12撮影)
後楽園・紅梅

後楽園・紅梅
(岡山市後楽園、2005.2.12撮影)

岡山後楽園は、1687(貞享4)年に着工、1700(元禄13)年に基本的な構成が完成を見た庭園です。当時の岡山藩主池田綱政が家臣に命じて作らせたものなのだそうで、歴代の藩主の嗜好に応じてさまざまな造形が加えられ、より洗練された庭園が、現代に伝えられてきました。池田家は庭園の絵図や記録、文書等を数多く残していたこともあり、歴史的な変遷を知ることのできる、わが国でも屈指の大庭園です。衆知のとおり、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに、日本三大名園の1つとなっていることも頷ける、格調の高さと庭園美を誇ります。明治に入り庭園は岡山県に譲渡され、一般公開されるようになりました。

後楽園の特徴の1つは、芝を大量に使用しているということなのだそうです。日本に広く自生している野芝が庭園の中心部、「沢の池」と「唯心山」の周囲を中心に、ふんだんに養育されて、独特の美しさと明るさを演出しています。築庭当初は、沢の池西側のごく限られた範囲のみに使用されていた芝は、明治以降になりその面積が拡大されていったのだそうです。園内の大半は意外にも、田畑として利用されていました。現在でも、江戸期の記録等を参考に、茶畑や水田(井田(せいでん)と呼ばれる、中国周時代の田租法で、岡山藩が江戸初期に試みていた手法)が作られています。早春の園内には白梅、紅梅、椿、そして水仙が花を咲かせており、ささやかな春を感じることができました。


(「吉備路ノスタルジック」へつづきます)

このページのトップに戻る    旧山陽道(西国街道)を追ってページへ戻る

地域文の目次のページに戻る       トップページに戻る

(C)YSK(Y.Takada)2005 Ryomo Region,JAPAN