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沖縄本島、万機森厳の風景をゆく
2017年8月下旬、沖縄本島南部、那覇市周辺を歩きました。1999年9月に初訪問して以来の町並みはさらに鮮烈さを増しているように思われました。世界遺産に指定された史跡群をめぐりながら、琉球王朝が築いた政と聖の空間を感じました。 |
首里城跡から那覇市街地、東シナ海を望む (那覇市首里当蔵町三丁目、2017.8.28撮影) |
斎場御嶽から久高島を望む (南城市知念字久手堅、2017.8.28撮影) |
訪問者カウンタ ページ設置:2018年7月12日 |
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首里城公園周辺を歩く 〜王都の痕跡を訪ねる〜 2017年8月27日、宮古空港から到着した那覇空港は、夕闇に徐々に染まりながらも、まだ日中の暑さが残っていました。前回の訪問時には無かった「ゆいレール」を利用し、那覇市街地の投宿先へと向かいました。モノレールは茜色に染まる市街地を俯瞰しながら進み、国際通りに程近い美栄橋駅へと至りました。ホテルで休息した後で訪れた国際通り沿いは、多くの人々で賑わってまして、南国の活気に満ちた雰囲気に、以前と変わらぬ那覇市街地の活気に触れることができました。
翌28日の沖縄も、真夏のような晴天の下にありました。宮古島に入った8月25日からずっと晴れの日が続いていまして、この日も朝から気温の高い陽気となっており、したたる汗に辟易しながらの散策を余儀なくされました。この日が沖縄滞在最終日でしたので、まずは那覇空港に向かって荷物をコインロッカーに預け、ゆいレールで終点の首里駅へと向かいました。モノレールから望む那覇市街地は、那覇空港に近い部分や奥武山公園付近などを除いては概して稠密な印象で、人口密度の高い那覇都市圏の表象を改めて実感させました。モノレールは久茂地川や幹線道路に沿って市街地を縫うように進んでいきます。やがて、那覇市街地を見下ろす高台に広がる首里城の建物が右手に見えるようになると、程なくして首里駅へと到着しました。1492年に尚巴志王が当時3つの王国(三山)を統一して以来、首里は琉球王国の王都として、同王国が1879(明治12)年に終焉を迎えるまで存在してきました。那覇は元来その王都の外港として発展した別の町でした。近代以降政治的な中心は那覇に移り、首里は沖縄の歴史を濃厚に残す「古都」として、海に向かって展開する那覇の町並みを穏やかに見つめています。 首里駅を出て龍潭通りを西へ、現代の町並みを進みます。建物の中にも琉球赤瓦が使われたものがあったり、ハイビスカスが鮮やかな花弁を空に向けていたり、随所に沖縄らしい景観が認められたとが印象的でした。当蔵交差点から南へ首里城公園の方向に向かいますと、程なくして目の前に琉球石灰岩が積み上げられた首里城の城壁が屹立していました。丘陵地の上にのびやかにつくられたその石積みは、快晴の青空になめらかなスカイラインをくっきりと寄り添わせていまして、王府の威厳を濃厚に感じさせました。左手に円鑑池と弁財天堂を見ながらゆるやかな坂道を上り、世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産の一つである園比屋武御嶽石門の前を通り、首里城を象徴する建造物の一つである守礼門を一瞥し、正殿へと向かいました。歓会門から瑞泉門、漏刻門へと進むルートからは、やわらかなカーブを持つ美しい城壁の向こうに市街地や東シナ海を望む眺望を楽しむことができます。正殿は正面の唐破風の漆の塗り直しが行われていましたが、御庭(うなー)と呼ばれる広場の前に秀麗な姿を見せていました。正殿1992(平成4)年に復元されたもので、世界遺産は「首里城跡」として登録を受けており、復元された建物や城壁などはそれに含まれていません。正殿の裏側(東側)には御内原(おうちばる、うーちばる)と呼ばれる、国王や親族、それに仕える女性などが暮らす私的な生活空間があり、現在再建事業が進められています。
正殿を見学した後は、首里城の西に隣接する玉陵(たまうどぅん)へ向かいました。玉陵は、琉球王朝の第二尚氏王統の陵墓で、世界遺産の構成資産の一つとなっています。東室、中室、西室の三基に分かれた墓室は、自然の岩壁を削って家型にしつらえた、沖縄独特の様式を持ちます。滴るような深緑の森に包まれるようにして営まれた陵墓は、頭上の太陽の光量をそのまま染みこませたような青空の下、静かにその場に蹲っているようでした。玉陵は首里城とともに、第二次世界大戦で甚大な被害を受けましたが、1974(昭和49)年から3年あまりの時間を経て往時の姿を取り戻しています。 再び首里城公園内に戻り、西のアザナ(展望台)から首里から那覇の市街地を一望して、そのまま首里城の南の斜面を下る「首里金城町石畳道」へと歩を進めました。首里城が乗る丘陵地の斜面を進む石畳の小道は、森の下をくぐり、琉球石灰岩の石垣が続く昔ながらの町並みの中を進みながら、ゆるやかに取り付けられています。古くは真珠道(まだまみち)と呼ばれた琉球王朝時代の官道の一部で、琉球王朝時代の地域の姿を偲ばせる風景が続く場所として知られています。日本の道100選のひとつとなっているのも、そうした文化的な側面が評価されたものであるといえるのでしょう。道の途中のさらに小さな路地を入りますと、首里金城の大アカギと名付けられたアカギの古木が生育する場所に行き着きました。内金城嶽(うちかなぐすくたき)と呼ばれる、古い来歴を持つ御嶽の境内に樹冠を広げるその大木は、沖縄が過ごしてきた歴史を受け止めながらもなおみずみずしい姿を見せていました。石畳道を下りきり、来た方向を振り返りますと、溢れるばかりにきらめく緑の森がそこにはありまして、沖縄の美しい自然そのままの鮮烈さを表現していました。
金城町石畳道からはタクシーを拾い、那覇市内のもうひとつの世界遺産構成資産である識名園(しきなえん)へと向かいました。太陽は依然としてガラスのような光彩を放って空の青を熱帯の色彩に昇華させていまして、雲はどこまでも純白のヴェールを纏わせていました。吹き出る汗は止めどなく、水分を摂りながらのフィールドワークとなりました。識名園はパンフレットの説明によりますと琉球王朝で最大の別邸で、王家の保養や外国からの使臣の接待などに使われていた場所であるとのことです。首里城の南に位置することから、「南苑(なんえん)」とも呼ばれました。識名園も沖縄戦による惨禍の例外では無く、1975(昭和50)年より整備が進められて今日の美しい景観を取り戻しました。枝からいっぱいの気根を垂らした南国らしい森を抜けますと、池を中心に緑と建造物が配された廻遊式庭園への視界が広がりました。 池の中央には中国の意匠を彷彿とさせる四阿の六角堂があって、池の畔にある琉球風の赤瓦屋根が目を引く御殿(うどぅん)とのコントラストが秀麗な印象です。園内には育徳泉(いくとくせん)と呼ばれる湧き水があって、池の水源の一つともなっています。柵封関係により親密な外交を行っていた中国と琉球双方の様式が融合した庭園は、ふんだんに配された緑によって清浄な庭園の景観が保たれていました。六角堂への石橋や池の縁に積まれた石などには琉球石灰岩が効果的に活用されていまして、沖縄らしさを表現しています。庭園の東南の高台には勧耕台(かんこうだい)と呼ばれる展望台があります。ここからは海は見えず、茫漠とした大陸的な眺望が広がります。ここに中国の冊封使を招き、琉球が小国ではないことをアピールするための施設であるとも伝わります。小規模な国土を持つ国家が周辺の大国と渡り合いながら、国を維持してきた工夫を偲ばせました。
鮮やかな緑と青空の下にあった識名園の時間を終え、路線バスで那覇市の中心市街地へと進みました。バスは標高のある識名園から傾斜地に開発された宅地の中を進む狭い道路を縫って平地へと下りていき、与儀、開南を経て商業施設が集積する繁華街へと到達する構図は、狭い範囲に都市機能が集積する那覇市街地の性質を端的に物語っていました。 斎場(せーふぁ)御嶽へ 〜琉球王国最高の聖地を目指す〜 県庁北口交差点周辺は、1991(平成3)年に完成した複合商業施設「ぱれっとくもじ」があり、ここから国際通りが東へ延びて、沖縄最大の繁華街を形成しています。椰子の木の並木が続く通り沿いには多くの飲食店や土産物店が集まっており、また牧志公設市場やむつみ橋通り商店街、平和通り商店街などが接続して、昼夜問わず活気のある町並みが訪れる人々を引きつけています。沖縄戦後、古くからの那覇の中心部(ゆいレール県庁前駅北西、波上宮あたりまでの一帯)が接収され、行き場を失った人々が新たに開いたのが国際通り周辺の新市街地です。そのめざましい成長は、この国際通りをして「奇跡の1マイル」と言わしめました。
国際通りを折れて、庶民的な佇まいを見せるアーケード下の商店街を歩きながら、戦災をあまり受けなかったことから伝統的な家屋が残る壺屋地区へ。「壺屋やちむん通り」と呼ばれる通り沿いには、赤瓦屋根の建物が点在して、やちむん(焼き物)の窯元や骨董店などが店を開いています。約330年前に琉球王府がこの場所に陶工を集住させたことがこの地域における「壺屋焼」の始まりです。この日は沖縄本島の南部、南城市にある世界遺産の構成資産のひとつである斎場御嶽へと向かうことにしていました。那覇市中心部から東へ進み、沖縄本島南部の東岸における中心地の一つである与那原町を経由し、斎場御嶽方面へ進むバス(志喜屋線)が出発するまでの時間、琉球文化の伝統を感じさせる壺屋の町を散策しました。 バスは那覇市中心部から東へ、郊外における商業集積や住宅地などが連担する風景の中を進んで与那原の市街地へ至り、そこからは美しい海やサトウキビ畑の背後に輝く丘陵の緑を車窓から見ながらの行程となりました。バスは路線の中途にある東陽バス本社で別の車両に乗り換えます。2本のバスを乗り継いでおよそ1時間20分、沖縄本島南部で東側に突き出した知念半島の東端に程近い場所にある斎場御嶽入口へとたどり着きました。近傍にある南城市地域物産館でチケットを購入し、御嶽へと続く道路を歩きます。振り返りますと、アクアマリン色の燦爛を見せる太平洋が大きく広がっています。御嶽の入口に建つ「緑の館 セーファ」にて、御嶽を参拝する上での心構えをまとめたビデオを観た後、台地上にある聖地へと足を踏み入れます。何より聖地であることを忘れず敬う気持ちで、祈りを捧げている人を遮らないなど、それはここが沖縄(琉球)にとって最上の聖地であることを改めて実感させました。参道は国王が聖地を巡拝する儀礼である「東御廻り(あがりうまーい)」の際に、斎場御嶽へと向かう道筋を進みます。御嶽への入口である御門口(うじょうぐち)からは、いよいよ聖域の中心へと入っていくこととなります。石製の香炉は御嶽内にある6カ所の拝所を表わしていると言います。ここからは「神の島」と呼ばれる久高島を望むことができます。
斎場御嶽は、琉球開闢の祖アマミキヨが降誕し最初に作ったとされる久高島を望む場所にあります。琉球王朝の信仰における神女の最高位にある聞得大君(きこえおおきみ)が最高神職に就くための儀式である「御新下り(おあらおり)」もこの場所で行われました。緑濃い森に包まれるようにしてある参道を進みますと、猛々しい日射しもしなやかな聖光として浄化されているようにも感じられます。太陽が昇る方向にある神の宿る島に向かい、古来より多くの祈祷が営まれてきた聖地の崇高さをいっぱいに体に受け止めながら、大庫理(うふぐーい)、寄満(ゆいんち)と呼ばれる拝所(神域、「イビ」と呼ばれます)と進みます。寄満からは来た道を戻り、久高島を望む三庫理(さんぐーい)と呼ばれる拝所へ進む参道へと歩を進めます。 2つの自然の大きな岩が三角形の空間によって支え合う空間の先がその三庫理です。岩の手前には、「シキヨダユルアマガヌビー」と「アマダユルアシカヌビー」と呼ばれる壺が安置されて、直上の鍾乳石から滴る神聖な水を受ける拝所も存在しています。岩と岩の間の洞穴のような場所を抜けて、三庫理へ。向かって右側の岩の上が「チョウノハナ」と呼ばれる拝所となっています。東には、神の島久高島を遙かに見通すことができます。南国のつややかな植生に覆われた御嶽の彼方、クリアな紺碧の海に浮かぶ久高島は、どこまでもたおやかな面差しを見せていました。かすかながらも確かな日の光が差し込む森厳な森の下で、潮騒と風音のみが漂う御嶽は、この上のない静謐な空気に支配されていました。
御嶽の見学からの帰路は、参道を歩きながら三庫理の岩の隙間越しに見える青空が透けた光に癒やされ、その光を受けてなお厳かな空気をはらませる森に心を揺さぶられ、その森の彼方に輝く海の青さに魅せられました。往路で利用したバスで那覇市街地へ戻り、羽田へ向かう飛行機が出発するまでの時間、那覇の旧市街地の町並みと、海岸の高台に鎮座する波上宮を参拝し、沖縄での時間を終えました。タクシーで空港へ向かう際、車は中心部ではなく沿岸部を通過する那覇西道路に入り、海底トンネルの那覇うみそらトンネルを経由して空港に到着しました。土地が少ない那覇における開発の現況を垣間見ました。 真夏の鮮烈さそのままの青空の下、世界遺産の構成資産を中心に彷徨した今回の沖縄本島訪問は、輝ける大地と海と森に抱かれながら独自の文化を醸成してきた沖縄の「いま」を濃厚に感じることのできる瞬間の連続であったように思いました。 |
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