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大阪ストーリーズ


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#1 御堂筋縦断(前編)

初夏の御堂筋は、ほんとうに爽やかですね。2004年5月1日の大阪は、日差しはどこまでも明るく、青空はどこまでも輝かしい一日でした。4列の銀杏並木は、葉の一枚一枚がみずみずしく光を浴びていまして、新緑のやわらかな輝きに溢れていました。若々しい緑に包まれた街のスカイラインは、御堂筋がこの街の現代を象徴するメインストリートとして、変わらぬ存在感を持っていることを示しているようでした。

御堂筋が完成したのは、1937(昭和12)年5月。阪急梅田駅前から南海難波駅前まで、大阪の北と南の繁華街を連絡する大幹線として建設された御堂筋は、総延長4,027メートル、幅員43.6メートルという規模を誇ります。日本の大都市を代表する大通りの大多数が、戦災復興の都市計画の中で形成されたものである中にあって、昭和初期にその端緒を持つ御堂筋の来歴は、注目に値します。御堂筋は、現在でも通りに面して荘厳な印象を与えている「北御堂(西本願寺津村別院)」と「南御堂(東本願寺難波別院)」の門前を結ぶ街路として、江戸時代から存在していたのだそうです。当時の道幅は6メートルほどだったといいます。この御堂筋が、近代大阪の一大動脈として機能する巨大な街路として生まれ変わることとなったのは、1914(大正3)年に、大阪市助役に就任した関一(せきはじめ)による、高速鉄道構想(地下鉄線開発)の一環として、拡張・拡幅計画でした。後に大阪市長に就任した関は、地下鉄や御堂筋の工事をはじめ、大阪城天守閣の再建等のプロジェクトに取り組み、大阪市街地の近代化の礎を築きました。ちなみに、関一は、現在の大阪市長・関淳一氏の祖父にあたられるのだそうですね。かくして、戦前のまだ中低層の町屋の残る中で燦然たるモダン・ストリートとして産声を上げた御堂筋には、現在においても、金融機関の本支店をはじめ、企業の支店が多く集積しています。

道頓堀川、戎橋より西方向

道頓堀川、戎橋より西方向
(なんばHatchが見える、2004.5.1撮影)
御堂筋周防町交差点

御堂筋の景観(御堂筋周防町交差点)
(中央区心斎橋筋一丁目、2004.5.1撮影)
御堂筋の若々しい銀杏の新緑

御堂筋の若々しい銀杏の新緑
(中央区心斎橋筋一丁目、2004.5.1撮影)
長堀通の景観(新橋交差点)

長堀通の景観(新橋交差点)
(中央区心斎橋筋一丁目、2004.5.1撮影)

この日の午前9時、なんば・OCATに高速バスにて到着した私は、ミナミの歓楽街を一瞥し、戎橋から道頓堀の景観を確認し、心斎橋筋の商店街を経由しつつ、御堂筋周防町の交差点より、御堂筋に入り、梅田を目指して歩き出しました。銀杏並木のグリーンベルトによって中央の4車線部分と、両端の1車線の部分とに分けられる6車線の御堂筋は、南方向への一方通行の街路です。しかし、完成当初は中央部分が「高速車道」、いわゆる側道部分が「緩速車道」として設計されており、緩速車道は牛馬車や荷車、自転車、そして人力車などの軽車両の通行に供されていました。車社会となった現代においてはその役割は変化しましたが、戦前の穏やかな都市の雰囲気が感じられるエピソードかな、と思います。

大丸デパートの横を過ぎ、かつての長堀川の流路上に作られた長堀通を横断します。「新橋」という交差点名は、当時長堀川に実際に架けられていた同名の橋の名前を今に伝えているものですね。地下鉄心斎橋駅周辺のこのエリアは、ランドマークのソニータワーをはじめ、世界のトップブランドの店舗が軒を連ねるほか、8か所あるトップライトから太陽光がふんだんに射し込む「地上と地下が響き合う立体都市」として、日本最大規模を誇る地下街「クリスタ長堀」などが立地する活気あるスポットの1つ。通過したのが午前9時30分でしたので、人影はまだまだまばらでしたが・・・。

御堂筋も、この付近から金融保険業関連のビルや、支店の入ったオフィスビルが目立つようになり、アミューズメント性のある街路から、ビジネス街としての街路へとその性格をシフトさせていきます。博労町に鎮座する難波神社は、御堂筋に面してゆたかな杜の緑を輝かせているお社ですが、浄瑠璃衰退期の1811(文化8)年に、淡路より進出した植村文楽軒によって創設された人形浄瑠璃の小屋があったことで知られており、稲荷社文楽座と呼ばれていました。これが、今日の「文楽」の名称の元になったのだそうですね。荘厳な南御堂の結構を確かめつつ、阪神高速を乗せた中央大通を横断し、南御堂に負けない威容を示す北御堂の前を通過すると、目の前のビルに私の地元「群馬銀行」の看板が目に入りました。この付近には、宮城の七十七銀行など、全国各地の銀行の支店が集っています。大阪はなんだかんだ言っても西日本を代表する都市であると実感する光景でありました。


難波神社

難波神社
(中央区博労町四丁目、2004.5.1撮影)
本町三丁目交差点、東方向

本町三丁目交差点、東方向
(中央区本町四丁目、2004.5.1撮影)
御霊神社

御霊神社
(中央区淡路町四丁目、2004.5.1撮影)
北御堂前の景観

北御堂前の景観
(中央区本町四丁目、2004.5.1撮影)

さらに進むと、ビルの谷間に御霊神社へとつづく、どこか庶民的な街路に惹かれて、御堂筋を離れました。御霊神社は商業金融の中心地であるこのあたり(「船場」と呼ばれますね)の鎮守として厚い信仰を集めているのだそうですね。1884(明治17)年に、前述しました文楽座はこの地に移って「人形浄瑠璃御霊文楽座」と称して人気を博したのだそうです。御霊文楽座は、現在の国立文楽劇場の前身となり、今日の文楽の基礎となったわけです。

御堂筋をその誕生から見つめてきたシンボル的存在「ガスビル」の前を通過しますと、御堂筋は大阪の都心のウォーターフロント、中之島へとつながっていきます。

※後編へ続きます。

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