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大阪ストーリーズ
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#5 夕陽丘周辺を歩く 〜上町(うえまち)台地、大阪のあけぼの〜 地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘駅を出ますと、目の前には谷町筋の現代的ながらものびやかな顔をした町並みが展開していました。聖徳太子が建立した最古の官寺として知られる四天王寺のシルエットを感じながら、多くの寺院が立地する寺町としての色彩をも帯びたエリアであるためであったのかもしれません。秋空の下常緑の街路樹が輝かしい谷町筋を北し、夕陽丘交差点先の路地を西へ折れて穏やかな住宅地域を進みますと、口縄(くちなわ)坂へと至ります。この口縄坂をはじめとして、この夕陽丘界隈には、源聖寺(げんしょうじ)坂、学園坂、口縄坂、愛染(あいぜん)坂、清水(きよみず)坂、天神坂といった坂道が北から南へ連続していまして、坂周辺の穏やかなグリーン・ベルトの景観とあいまって、巨大都市・大阪における穏やかなアクセントとなっています。大阪といいますと、中之島周辺や道頓堀周辺などの平坦な水辺の景観が印象的で、坂のある風景を思い浮かべることがなかなかないというのが、大阪を知らない関東人としての私の認識がありました。 これらの豊かな坂道の景観をつくり出しているのは、「上町(うえまち)台地」と呼ばれる高まりです。大阪市街地の南東部を、南は大和川のあたり、北端は大阪城あたりまで、距離にしておよそ13kmにわたって南北に貫いています。標高を跡付けますと、北より難波宮史跡公園付近(法円坂町地内)が約23メートルで最高点となり、これより南へ、四天王寺付近の約21メートル、阿倍野付近の約15メートル、南部の住吉付近は10メートルとなだらかに下っている地形となっているようです(サイト歴史散策−上町台地と坂道−より引用)。古来、この上町台地は生駒山麓まで湾入したかつての大阪湾に突き出した半島で、後に堆積作用や干拓等によって平坦地が広がってゆき、大阪平野の現在が形成されていきました。上町台地は、「難波津」と呼ばれた古代の港町の存する場所として、大阪のルーツとも目されるエリアであり、難波宮などの都城の造営や石山本願寺の隆盛とその後の大坂城の建造と、常に大阪市街地の成長と共にある地域でありました。何より上町台地から西へ下るたおやかな坂道の数々こそ、「大坂(後、大阪)」の地名の端緒ともなっているようです。 道は「この先車両通過不可」の標識を過ぎると途端にその幅を狭めて、石段の付けられた、しっとりとした雰囲気のある坂道−口縄坂−へと移り変わっていきます。この口縄坂の名前は、坂を見上げたようすが蛇(くちなわ)を連想させるからという説に加え、大坂城築城の際の「縄打ち口(起点)」で逢ったことに因むとする説もあるとのことです。坂道は周囲の寺院境内の樹木や石塀などに穏やかに囲まれていました。坂下の松屋町筋に面した寺院群を過ぎ、大江神社の鳥居をくぐって石段となっている参道を登ります。坂道が取り付く急崖のすぐそばまで住宅地が迫っているものの、坂そのものはみずみずしい緑に覆われているのがたいへんに快く感じられます。四天王寺の鎮守として建立されたと伝えられる大江神社の境内を通り路地に出ますと、程なくして、「愛染さん(堂)」の名で親しまれている勝鬘院(しょうまんいん)へと至りました。
朱塗りの山門をくぐり、境内へ。朱色の柱が鮮やかな本堂の屋根の上、背後の多宝塔の相輪の先が覗いていました。愛染さんの多宝塔は大阪市内では最も古い建物の1つとされていまして、その建立は593年(推古天皇元年)年、聖徳太子の手によるものとされたものが、1597(慶長2)年に豊臣秀吉により再建されたものであるとのことです。高さ22メートル、建坪32平方メートル、三手先造本瓦葺き極彩色の、桃屋時代の様式を伝える“豪華雄大“な塔です。愛染さんは、大阪の夏祭りの先陣を切って開催される「愛染祭り」で知られているとのことで、このとき本尊である愛染明王が開帳されます。愛敬福徳を授けるとされる愛染明王の本願を求めて、多くの人出で賑わうとのことであります。境内には愛染の霊水や愛染かつらの木なども佇みます。大江神社南に緩やかに下る愛染坂はなだらかな下町的な雰囲気のなだらかなスロープといった印象でした。その下町的な住宅街の中を進む路地を行き、石垣と石段、街灯が整えられた清水坂へ。坂上にある新清水寺・清光院に登る坂道であることからこの名があるとのことです。坂は両側が石垣、坂自体も石畳できれいに整えられており、モダンな街灯もしつらえられていて現代的な雰囲気です。 上町台地の高台に位置する清光院は、四天王寺の支院の1つで、京都の清水寺を模して建てられているところから新清水寺の名前でも呼ばれています。境内南側の崖から流れ出る滝は、京都清水寺の「音羽の滝」を模した「玉出の滝」で大阪唯一の滝として知られているのだそうです。また、この付近一帯は昔から名泉所として知られ、その多くは都市化等の影響で枯れてしまっているものの、増井・逢坂・玉手・安井(安居)・有栖(土佐)・金龍・亀井の清水は七名水と呼ばれているとのことです。新清水寺からは、大阪の町並みをたおやかに眺めることができます。スカイラインはあまねく近代都市の高層建築物によって充填されています。通天閣や梅田のスカイビルなども望むことができまして、現代都市・大阪を緩やかに見つめることのできる場所であるようでした。かつて難波津の時代には、この上町台地の西の斜面まで海岸線が迫っており、やがて平地が広がって大阪の市街地が形成されてもなお、このひっそりとした緑に包まれた高まりからは、光り輝く大阪湾の海原を望むことができたのだといわれています。「夕陽ヶ丘」という土地の呼び名も、水平線に赤々と沈む夕日を美しく眺めることのできる場所であったことに因むものであるようですね。コンクリートの海となった現在にあっても、ここから眺める夕刻の町は、とびきりのきらめきに溢れる情景の中に展開するのではないか、そのように感じました。
清水寺を過ぎ、安居神社へと続く天神坂(安居神社が菅原道真−天神様−を祭神とすることに因ります)を歩み、伝統的に良質の沸き水を産したエリアであることを伝えるために設計されたという水の落ち口のあるモニュメント前を経由して、安居神社の境内へと進みました。しずかな杜に抱かれた境内は、大坂夏の陣において、眞田幸村が没した地として知られます。境内の南には、付近の住居表示にもなっている「逢坂」が展開しています。これまでのうるおいに満ちた和やかな佇まいの坂道とは違って、この坂は国道25号線の大通りとなっていまして、彼方に見える阪神高速環状線のガードとあいまって、ここが大都市たる大阪の市街地の只中であることを実感します。道の反対側には、立地するモダンな門構えをした一心寺が立地していました。 上町台地は、寺町としての穏やかな景観と、都会の中にあってみずみずしいしっとりとした緑地としての雰囲気とを濃厚に溶け込ませながらも、現代都市として漲るエナジーを張り巡らせている大阪のポジティブな味わいをもにおわせつつ、下町情緒的な雰囲気をも漂わせている場所であるように感じました。それは大阪の地が都市として存立してきた中でこの街を誕生させた礎として歴史性というかけがえのない財産をまとってこそ、最上の輝きを放っているのではないか、そのように強く心に刻みました。 上町台地を上に下に彷徨した散策の道程は、新世界方面へと続いていきます。 |
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