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大阪ストーリーズ
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#6 新世界周辺を歩く 〜大阪を代表する“繁華街”〜 現代都市の大動脈として機能する逢坂の坂を西へ向かいます。一心寺の北を過ぎますと程なくして松屋町筋の交差点へと至ります。交差点近くの歩道に古めかしい道標が残されていました。明治丗年(30年)12月に建てられたと刻まれている表面には、「すぐ 今宮 木津 右 二ツ井戸 八軒家 天神」と記されていました。「二ツ井戸」とは道頓堀と東横堀とが直角に交わるあたりにかつて存在した井戸のことです。当時の大阪における名所の1つでした。長方形の石の井桁で、中央を石板で仕切った二つの井戸が並んだ形をしていたことからこの名前で呼ばれていました。井戸のあたりは水運が中心であった江戸時代、船で運ばれてきた物の荷揚げ場だったので、多くの物資や人々が集まる所であったといいます。「二ツ井戸おこし」として知られる栗おこしの「津の清」は、この二ツ井戸の西で商いをしていました(現在は本社は堺市に移転していて、本社横に二ツ井戸が設置されているとのことです)。また、「八軒家」とは、天満橋から天神橋までの大川(旧淀川)の左岸一帯に展開した、大坂と京都・伏見とを連絡する船着場があった周辺エリアのことであり、周辺に八軒の旅宿があったことからこの呼び名がなされるようになったものであるようです。「天神」とは天神橋を指すと考えるのが自然で、松屋町筋に沿って点在する名所を案内した道標であったのでしょうか。道標に「すぐ」と記された今宮・木津方面へ、天王寺動物園の北を通り、阪神高速松原線の下をくぐって、新世界へと進みました。 大阪のシンボルとして知られる通天閣を中心とした新世界は、近年はやや衰退傾向があるとする見方もあるものの、大阪の町を代表する歓楽街の1つといってよいかと思います。現在の通天閣は戦後に建てられた2代目で、初代の通天閣がつくられたのは1912(明治45)のことでした。初代の通天閣は、パリの凱旋門を模した基部の上に同じくパリのエッフェル塔をモデルとした鉄塔を延ばした当時としてはかなり奇抜なデザインをしていたとのことです。「通天閣」の名付け親は、儒学者・藤沢南岳であることが氏の家族の証言により明らかとなっています。地図を見ますと、通天閣を中心として北へ放射状に街路が画されているのが分かります。この街路構成には、新世界が大阪における新たな歓楽街として建設された背景が大きく関係しているようです。
時は1903(明治36)年、現在の天王寺公園と新世界の位置にあたる敷地において、第5回内国勧業博覧会が開催されます。当時における国内外の先端技術を集めた博覧会は大成功のうちに終わりました。1909(明治42)年に博覧会跡地東側が天王寺公園となり、西側の土地22,000坪が、大阪財界出資の大阪土地建物に大阪市より一括払い下げされました。ここに、新世界の一大歓楽街としての開発がはじまります。「大都市のふさわしい模範的娯楽場を」と、パリとニューヨークを足して2で割った街「新世界」を作ろうとの構想のもと、用地の北半をパリに、南半分をニューヨークに、それぞれ見立てたまちづくりがスタートします。放射状3方向の通りと中央のエッフェル塔似のシンボルタワー、これはまさにパリのそれを模したものであったわけですね。なお、用地の南半分は、ニューヨーク・コニーアイランドを見本ににした遊園地「ルナパーク」がつくられました。ルナパークは大正期に閉園してしまったものの、新世界は一大歓楽街として目覚しい成長を見せ、通天閣の大火災による炎上・戦時中の金属供出による消滅、そして戦災という受難の時代を乗り越えて、今日のまちへとその隆盛を受け継いでまいりました。恵美須東交差点から南へ、通天閣を南正面に望む街路へと進みました。 はじめての新世界は庶民的な顔をしているように見えました。電柱が並び電線が密集する沿道、商店や飲食店だけでなく中低層の住居系あるいは事業所関連とも思われる建築物が並ぶ景観は、雑多な業種の集まる歓楽街としての新世界の性格をよく表現しているようにも感じられました。その中にあっても、通りの向う、中央に燦然と屹立する通天閣の威容は実に輝かしくて、開発当初の新世界の華やかな雰囲気を彷彿とさせると共に、現代新世界のややもすれば混沌とした町の景観をまとめあげる閃光のような、抜きん出た存在感をも呈しているように感じられました。町の表情そのものは丸みを帯びた印象ながらも、その独特の近づき難いイメージをも纏った新世界にあって、通天閣の存在は散策経験の少ない訪問者にとって一服の安心感を与えている灯火のような、穏やかなあたたかみをもたらしてくれる至高のランドマークであるように映りました。
円形エレベータとしては世界初であるというエレベータに乗って、展望階へと向かいます。幸運の神様として新世界草創より地域を見守ってきた“ビリケンさん”もいる展望台からは、ぐるっと大阪の町並みを見下ろすことができました。これまで歩んできた上町台地の緑に満ちた景観は現代の都市のまちなみの中でもしっとりと息づいており、手前の天王寺公園・茶臼山の緑と融合しながら、高層建築物の連なる都市の角張った印象を穏やかに和らげていました。この日は曇天でかすんでいるものの、大阪城の天守閣もそれらのみずみずしい緑地景観の向うに望むことができました。天下の台所として揺るぎない都市基盤を形成してきたこの町の礎たる歴史に溢れたエリアとしての輝きが、そこに展開されていたのではとも思えました。北西から北方向は、現代大阪の中心業務地区。大阪ドームの姿やなんば周辺の高層建築物群、梅田のスカイビルなどが展開します。巨大都市のシルエットに連続して、大阪城背後のビジネスパークのビル群も認められます。西に目をやりますと大阪湾岸のウォーターフロントの景観が続きます。かすかながらコスモタワーらしき影も港大橋の欄干の向うに望まれました。南へ目を転じますと、新世界の新たなスポットとして1997(平成9)年に完成したフェスティバルゲートとスパワールドを下にして、ジャンジャン横丁の町並みや阪堺方面の都市景観が緩やかに展開していました。 通天閣からもアーケードが確認できた通天閣本通商店街を抜けて、恵美須交差点を経て今宮戎神社へと向かいました。「えべっさん」の名前で知られるこの神社は、商業の町大阪の繁栄と共に存立してきた「商売の神様」です。兵庫・西宮の西宮神社を本宮と称するのに対し、新しい宮、すなわち「今宮」と呼ばれたのが、この神社周辺の地名となったと考えられているとのことです。周辺の野菜の集散地として、また四天王寺への参詣客を目当てとして、伝統的に市の立つことの多かったこの界隈では、「浜の市」と呼ばれる市が立ち、大阪湾に近く宮中に鯛を献上したという伝統ともあいまって、庶民に広く崇拝されてきました。1月9日から11日にかけて繰り広げられる十日戎のお祭りには多くの参詣客が集まり、「商売繁盛、笹もってこい!」の掛け声の中で、福娘たちが福笹を集まった人々に授与していきます。そんな大混雑となるとされる神社の境内は、その喧騒が嘘のように人影もなく、穏やかな社殿はそこに静かに佇んでいました。 |
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