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大阪ストーリーズ
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#7 環濠都市・平野郷をめぐる 〜自治都市の面影〜 JR平野駅南口を出て歩き出した平野の町は、中高層のマンションが点在しながらも、戦前までの雰囲気を感じさせる町屋もまた存在する穏やかな表情をしていました。住宅地域の中でやっと切り開いたような雰囲気を感じさせる駅前広場からは多くのバスが発着しておりまして、都市近郊区間における交通の結節点としての役割も持っているようで、近鉄八尾駅や布施駅(東大阪市)といった近隣都市域への路線も運行されていました。古い商家や住宅、戦後に建てられた商店のアーケード、そして前面に緑地を配した現代的な高層マンションまで建ち並ぶ駅前筋を南へ向かい、逢坂付近と同様やはり交通量の絶えない国道25号線を東に折れて、平野郷散策をスタートさせました。途中の公園で発見した「平野郷界隈歴史の散歩道」と題された案内標示板(デザイン性に優れすぎていまいちガイドマップとしての役割を果たしきれていないきらいもありましたが・・・)を頼りにしつつ進みます。自動車の流れが激しくとも、逢坂あたりで見た光景とは明らかに異なっていたのは、周囲は中低層の建築物に混じって穏やかな町屋が比較的多く存在していたことでした。程なくして到着した平野小学校の南には「古河藩陣屋跡」と記された石碑がありました。石碑には、「平野郷の陣屋は天明年間土井侯の下総の国古河藩時代に置かれ、明治二(1869年;YSK註)年の版籍奉還後陣屋は廃止、跡に郷役場、警察署、小学校が出来、平野郷は大阪市に編入、奈良街道拡張後平野小学校のみ此処に現存しています」と書かれており、平野郷の歴史を明快簡明に語っています。この陣屋門は近傍の大念仏寺南門として保存されているといいます。 ここで、簡単に平野の歴史を振り返ってみます。平野郷は戦国時代堺と並ぶ自治都市で、自衛や灌漑、洪水等の調整池としての役割を持たせるために町の周囲にを環濠によって取り囲んだいわゆる「環濠都市」のかたちを呈していました。集落の周囲13箇所に木戸口を設けて各地への街道が通じ、交通の要地としての地位を得ていたといいます。杭全神社のあるあたりは環濠都市の中にあって北に突出した格好となっていたエリアで、この部分にて環濠が平野川に通じており、水運の拠点としての性格も持ち合わせていたようです。平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野麿にちなみ、広野の邸宅があったことから広野と呼ばれ、それが転訛して平野荘となったとも伝えられています。後に藤原氏の荘園、宇治平等院領を経ながら、坂上家の子孫・平野氏の一族末吉家を筆頭とする坂上氏(平野氏)七名家が自治を掌握していきます。大坂の陣の際その要衝性から戦火の及ぶこととなったものの江戸期には町割が行われて、活気ある都邑としての中心性を維持してきました。1717(享保2)年に町人の学校として開校したという含翠堂跡を示す石碑の前を過ぎて、環濠都市としての面影を濃厚に残す場所の1つである杭全(くまた)神社へと向かいました。
杭全神社は、当社は坂上広野麿の息子当道(とうどう)が氏神として素盞嗚(すさのお)命を崇神とした(第一殿)のが最初であると伝えられるゆかりを持ちます。本殿は前出の第一殿を含む三殿からなり、第三殿は1190(建久元)年熊野信仰の隆盛に伴って熊野権現を勧請したもの、第二殿は1321(元享元)年後醍醐天皇の勅命により伊弉諾(いざなぎ)尊を祀ったものを端緒としているとのことです。社殿横の連歌所は、大坂冬の陣のとき壊されたものを1708(宝永5)年に再興なったものであるそうです。杭全とは、平野郷のかつての地域呼称であったのだそうです。 環濠跡を周囲に堀として残す杭全神社の境内に、「平野郷町大阪市編入記念碑」なるものが建てられていました。オリジナルの碑そのものは既に失われていたようで、碑の写真とその説明書きが刻まれたモニュメントとしてつくられているものです。平野郷は明治後の市町村制により住吉郡(後に東成郡)平野郷町として存立し、在郷の中心都市としての中心性を維持してきました。大正期に入り大阪都市圏外縁部における工業化と都市化が急速に進展するようになると、都市計画の一体的な策定・進捗や教育制度等の統一的な運用などが叫ばれるようになり、大阪市域の拡張が唱えられるようになりました。その時流の中で平野郷町を含む東成・西成両郡も1925(大正14)年4月1日に大阪市に編入されました。この旧石碑はこれを祈念して杭全神社境内に建立され、1995(平成7)年までこの場所に存在してきたと、そのモニュメントは語っていました。モニュメントに添えられた往時の石碑の写真は、大阪都市圏が顕在化しながら急激に郊外化した時勢の中での躍動に溢れた人々の高まる期待感や、自治都市として大阪平野の都市群にあって強い地域性を刻んできた平野郷の威光を残そうとした心意気のようなものを感じさせるものでした。平野郷の人々にとって杭全神社境内は記念碑を立てるにはここしかないといったような心の拠所であったのでしょうか。 杭全神社を後にし、宮町東交差点にて国道25号線を横断して市街地を南北に縦断する街路へと進みました。道路の一隅に、「旧田畑門(たばたもんすじ)筋 江戸時代から古市街道といわれ、藤井寺や道明寺、大峰山へ行く道で、往来の多い賑やかな道であった。いまも旧環濠内を南北に通る唯一のバス路線である。樋ノ尻(ひのしり)門から北の筋を通称「魚の棚(うおんだな)」と呼び、海産物を扱う店が並んでいた」とのプレートが掲げられていました。
アーケード仕様となっている東西の平野中央商店街の穏やかでにぎやかな商店街を進みました。江戸期に碁盤目状に区画された平野郷の町並みはその整然とした姿をそのまま現在に受け継いでいまして、古い商家や町屋が数多く残る町並みはたいへんに慎ましやかな表情を見せていました。平野郷はまち全体が歴史歩道と見立てた整備が進んでいるようで、町屋を取り込んだ住宅地域や商業地域の路地のアスファルトにはモザイクの飾りが所々に埋め込まれており、それらを辿っていけば自然と町並みのポイントをめぐることができるようになっているようでした。大念仏寺はゆるやかなラインを描く町並みに溶け込みながらも壮麗な結構が印象的です。日本十三宗の1つ融通念仏宗の総本山であるのだそうです。1127(大治2)年に鳥羽上皇の勅令により坂上広野麿の菩提所修楽寺別院を念仏の根本道場として新しく建立されたものがこの寺院の始まりと伝えられます。大念仏寺より南には旧環濠内のエリアとしての歴史の雰囲気を感じさせる住宅地域が続きます。自動車も通れないような幅員の街路も認められ、通過する車両も比較的少なくて、落ち着いた町歩きを楽しむことできます。 国道479号線(内環状線)に出ますと、とたんに高密度な都市エリアへと表情が一変するのが不思議なほどです。地下鉄平野駅入口付近に来ますと阪神高速の高架が上空に乗り上げてきて、幹線道路として交通量の多い南港通の喧騒とあいまって一気に都市的なダイナミックな景観が展開してきます。南港通を東へ歩き、再び落ち着きを取り戻した町並みの中を緩やかに進んでいき、平野公園へと至りました。周辺住民の憩いの場として豊かな緑に包まれる平野公園では、また平野郷を取り囲んでいた環濠の名残である土塁の一部を認めることができます。赤留比売命神社東に並ぶ高まりがこの土塁の跡です。公園の北の入口付近に平野郷樋ノ尻口門跡の碑と樋ノ尻地蔵とがあります。樋ノ尻口門は環濠集落であった平野郷の周囲に設けられていた13の木戸口の1つで、この門は八尾久宝寺方面への出入口となっていました。各門の傍には地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったとされ、地蔵堂は樋ノ尻口門に設置されていたものであるのだそうです。門を出る人々とにとっては道中の加護を祈り、外からの変事にはこの門でもって退散させようとした祈願の表れであったのでしょうか。地蔵堂の北は近隣商店街の中核的なショッピングセンターが立地していまして、多くの人々が訪れていました。
旧田畑門筋の穏やかな町並みを再び南して、南港通りを経て地下鉄平野駅より帰路に就きました。1925年に大阪市に編入された平野郷は大阪市住吉区の一部となった後、1955(昭和30)年の中河内郡加美村、長吉村、瓜破村、矢田村の大阪市への編入時に東住吉区へと所管換えとなり、さらに1974(昭和49)年の分区により現在の平野区が発足しました。約50年を経て行政地名として平野の名が復活したことになります。その間の地域は目まぐるしく変貌し、名実ともに大阪都市圏の一部として都市化も進みました。区の人口は大阪市24区のうち最大となるにまで至っているようです。行政区名として平野の名前が甦ったことは環濠都市としての伝統への復古としてではなく、あくまで大阪都市圏における都市化の成熟によるものであったといえそうです。その一方において、地域においては穏やかに残された環濠都市の面影もまた濃厚に感じられました。今回平野郷を歩いてみまして町並みのたおやかさ、近隣都市域としての多様な景観構成にたいへん心惹かれました。都市に牽引され、都市に誘引された層の多くにはやや魅力に欠けた古めかしいものとしてそれらが映っているのかもしれません。とはいえ、平野郷は大都市圏近隣エリアにおける均質的・機能的な性質を帯びた都市的地域の中にあっても、きらりと光る豊かな個性を持った、かけがえのない歴史的資産であったように思われました。大切にしていってほしいと心から願います。 |
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