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#3 岡崎概観 〜岡崎公園と八帖町あたりを行く〜 2011年11月26日、香嵐渓(足助)から瀬戸へと赴いた私は、地元への帰路に就く前、西三河の中心地・岡崎を概観してみることとしました。国道155号から国道248号へ入り、そのまま南下して県道39号により岡崎市街地へと入るルートを採りました。岡崎へ向かう途上では、我が国屈指の工業都市として成長した豊田市街地や工場群を目の当たりし、日本経済をリードする地域の趨勢を感じました。また、岡崎市街地に近づくにつれて建物の密度が増し、地域の中核都市としての風格も覚えました。県道39号はかつて名鉄岡崎市内線(路面電車)の軌道敷でもありました。
岡崎は愛知県のほぼ中央、人口約38万人を擁して、西三河地域の中核都市として高い中心性と中枢性を持つ都市です。戦国期以降は松平氏の拠点として存立し、徳川家康生誕の地としても知られています。江戸期以降は城下町、そして東海道の宿場町として栄え、近代以降産業も成長し今日に至りました。自動車産業が興隆した豊田市が都市規模としては岡崎のそれを若干上回りますが(人口約42万人)、岡崎、豊田両市は地勢的にはほぼ拮抗しているといってもよい状況です。岡崎城址に整備された岡崎公園にて自家用車を降り、周辺を散策することとしました。到着時ですでに午後4時30分を迎える時刻となっており、自然駆け足での訪問とならざるを得ませんでした。 岡崎城は前述のとおり藩政期を岡崎藩の政庁として過ごしました。明治以降は廃城となて、敷地は都市公園である岡崎公園へとその姿を変えました。現在ある天守は1959(昭和34)年に再建されたものです。天守からは矢作川と乙川(菅生川)とが合流する近傍に交通の要所として発展、拠点性を高めてきた岡崎市街地をたおやかに眺めることができました。岡崎平野(西三河平野)の広大な平地を後背地として、市街地が穏やかに広がっています。北にのびやかな三河高原の山容、南には三河湾との間を隔てる幡豆山地がしなやかなシルエットをつくって、ゆったりと流れる乙川の流れが岡崎公園を覆う緑に隠されていました。市の中心部方面に目をやりますと、巨大なタワーマンション「岡崎タワーレジデンス」が一際威容を放っています。現在は隣接して別のタワーマンション「岡崎ウイズスクエア」も完成しています。このマンションの立つ康生地区はかつて松坂屋をはじめ商業施設の集積するエリアを形成していましたが、それらの閉店を受け、再開発事業が進められてきた場所であるようです。地方都市における中心市街地の衰退と再開発の只中を切り取るような風景であったのかもしれません。
岡崎城の別名「龍城」の名が付けられた龍城(たつき)神社を拝観し、岡崎公園の西、八丁蔵通りへ向かいました。岡崎は八丁味噌の産地としても知られます。岡崎城から西へ八丁(約800メートル)離れていたことが由来という八丁村(現在の八帖町)で生産されたことが八丁味噌の起源であるといいます。八丁味噌の蔵元が構成する美しい蔵造りの街並みを楽しんだ後は、再び岡崎公園に戻り、この日の活動を終えました。駐車場に戻るころにはすっかり日も落ちており、ライトアップされた大手門(再建)や天守が市街地の夜を彩っていました。前述のとおり、岡崎市街地は東海道五十三次のひとつ岡崎宿であったという顔もあります。市街地を横断する旧東海道は「二十七曲がり」と呼ばれる曲がり角の多いルートとなっていて、今日でもその道筋をたどることができるのだそうです。岡崎公園の帰路でも、そうした曲がり角に設置された案内柱道標(現代のもの)を見つけることができました。 今回の岡崎訪問は夕方の短い時間に限られたものとなってしまいましたが、西三河の伝統的な中心としての岡崎の町の大きさは十分に実感できました。今度訪れる機会があれば、旧東海道筋や中心市街地の再開発の状況などもつぶさに確認したいなと思います。 |
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