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#10 蔵のまち・半田市街地をめぐる 〜醸造業に生きる知多半島の中心都市〜 2015年12月20日、午前中の常滑市・やきもの散歩道の散策を終えた私は、常滑駅からバスを利用し東に隣接する半田市域へと足を伸ばしました。常滑市から半田市へは、知多半島の基部を横断する形となります。標高50メートル前後のなだらかな丘陵地には小規模な河川が刻んだ谷地地形が多く認められ、灌漑用の溜池が多くありまして、低地における水田の発達を支えているようでした。半田の市街地に近づくにつれて小河川が作り出した比較的広大な田園風景も認められまして、丘陵性の土地が卓越する知多半島でもこのような風景があることに新鮮な驚きを覚えました。
バスは名鉄知多半田駅に到着しました。当駅の500メートル東にはJR半田駅も立地しますが、利用者数・本数ともに名鉄駅の方が優位に立っていまして、実質的に当駅の方が市の代表駅であると言えます。駅前には駅ビル「クラシティ半田」が存在するほか、複数の中層マンションも立地していまして、中心駅としての一定の機能が集約されている印象でした。クラシティ半田の北側の県道を東へJR半田駅前まで歩きます。木造としてはJRで最古ともされる跨線橋を持つ半田駅は、JR武豊線の途中駅です。現在では名鉄線とともに名古屋方面への通勤・通学路線としての色彩の強いこの路線は、もともとは1886(明治19)年に現在の東海道本線建設のための資材を武豊港から輸送するために建設された経緯があります。碧南市の項でも触れましたが、半田市や碧南市が面する衣浦港(衣が浦)は古くから交通や物流の要衝として栄えてきた歴史がありました。こうした階上交通上の要衝性は、この地域の製造業の発展に少なからぬ影響を与えてきました。 半田市は人口およそ11万7千人の都市で、その市制施行は戦前の1937(昭和12)年、愛知県下では6番目、知多半島では最初の出来事でした。半田市は現在でも知多半島一帯における政治経済の中心としての一定の中枢性を持っていると目される、地域の中心都市です。半田駅前の商店街を抜けていきますと、その視線の彼方に、ややレトロな雰囲気のある町並みの空気感を一変させるような、巨大なオフィスビルが屹立しているのが目に入りました。半田市における伝統産業である醸造業から発展したミツカングループの本社ビルです。隣接してMIZKAN MUSEUM(ミツカンミュージアム)もあって、半田運河沿いの蔵が見える景観も地域の産業史を鮮やかに演出していました。この日は穏やかな冬晴れの天気に恵まれまして、波穏やかな運河に寄り添うように立ち並ぶ蔵の建物群も冬のやわらかな日射しを浴びて輝いていました。
半田運河沿いの美観を確認した後は、ミツカン本社北東の交差点から北へ、酒蔵や醸造蔵、醸造業経営者の邸宅などが集まる街区へと歩を進めました。格子壁が質実な気風を感じさせる小栗家住宅は、国の登録有形文化財で、「蔵のまち観光案内所」としても利用されています。江戸時代から海運業、醸造業で興隆した中埜半六家の邸宅や庭園も一般に開放され、國盛酒の文化館の佇まいとともに、半田における往時の繁栄を偲ばせていました。運河の対岸にも醸造蔵が立ち並んでいまして、良好な海運業の下支えのもとで一大産業として花開いた半田の醸造業の趨勢を実感させました。 蔵の集まるエリアから市街地を西に進み、JR武豊線の鉄路を横断して、半田の地名の由来をの一つとも言われる阿弥陀如来絵像を安置する順正寺(じゅんしょうじ)へ。その像の1513(永正10)年の裏書きに「坂田郷」との記述があり、この「坂田」を「はんだ」と詠むようになったという説が知られています。順正寺から北西、そして北へと続く路地は「紺屋海道(こんやかいどう)と呼ばれ、藩政期には主要な交通路として賑わった道筋でした。現在でも蔵造りの建物や常夜燈などが残されていまして、かつての縁を感じさせました。紺屋海道を通り抜けますと、国道を挟んで反対側に「半田赤レンガ建物」が秀麗な姿を見せています。旧カブトビール工場の建物を展示室やイベントスペースとして供しているもので、国の登録有形文化財や近代化産業遺産としての指定を受ける、半田市の近代を象徴する建造物となっています。この日はクリスマスを前に建物内外があでやかに装飾されていまして、訪れる人々を温かく迎えてくれていました。
半田赤レンガ建物の見学後は紺屋海道を辿りながら知多半田駅前に戻り、豊かな建造物が残る半田の町の散策を終えました。前日からこの日にかけて訪問した都市群では、窯業や醸造業など、多様な製造業が中世から藩政期にかけて成長し、今日の町の基盤を形成していたことを体感することができましたが、こうした産業を支えた流通業の発展もまた見逃せない視点であったと思います。こうした伝統的な製造業が基盤となり、今日の「ものづくり」の一大拠点となっている愛知県の産業が育まれてきたとも言えるのでしょう。何より地域の資源や地勢上の利点を巧みに生かして拡大させていった先人の努力には最大限の敬意を払わずにはいられない、今回の知多・西三河の訪問となりました。 |
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