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西海道訪問記 III

2004年8月末、壱岐・対馬及び佐賀を訪れた。大型台風が接近する中、必ずしも順調に進まなかった道程ではあったが、各地の豊かな地域性を鮮烈に感じることのできる訪問となった。

大隈重信旧宅

壱岐・刈り入れの終わった水田 対馬・浅茅(あそう)湾の景観
大隈重信旧宅
(佐賀市水ヶ江二丁目、2004.8.29撮影)
壱岐・刈り入れの終わった水田
(壱岐市芦辺町、2004.8.31撮影)
対馬・浅茅(あそう)湾の景観
(対馬市美津島町、2004.8.28撮影)

訪問者カウンタ
ページ設置:2004年9月20日


             対馬にて

2004年8月28日夜、対馬・厳原。この年最大級と目された大型台風16号が接近する中で、私はホテルの室内にいた。台風は、沖縄及び奄美地方を暴風域に巻き込みながら、東シナ海へと進み、九州を含む西日本をうかがう位置にあった。この日の未明、フェリー「つしま」に乗って対馬入りしていたのだが、午前0時15分の出航予定は30分ほど遅れており、これより早く午後11時30分に出航予定であった高速船ジェットフォイル「ヴィーナス」は既に欠航していた。テレビは、台風関連のニュースとして、沖縄・奄美や南九州方面へ向かう交通機関の運行状況を取り上げている。当該地域を離発着する航空便は全便欠航。そして、屋久島や種子島、甑島列島などと本土を結ぶ船便や、本州・四国と九州とを結ぶ長距離航路などの欠航も、続々と報じられている。それらの中には、島原半島と天草、八代海両岸とを結ぶフェリー便なども含まれている。この時、日本がいかに海上を行く航路が多いかを改めて思い知らされた。台風が来なければ、海が荒れなければ、今ここに報じられている航路を、毎日のように船が往来しているのである。陸上交通が発達したとはいえ、日本は島国。多くの地域において、毛細血管のごとく、細やかな航路が張り巡らされていて、地域の足として活躍しているのである。まだまだ、知らない「日本」は多い。

対馬は、東西約18km、南北約82kmという細長い島で、総面積はおよそ708平方キロメートルであり、本州・北海道・九州・四国の主要4島及び北方領土を除けば、沖縄本島、佐渡島、奄美大島に次ぐ広い島である。約4万人の人々が、この島に暮らしている。厳原町、美津島町、豊玉町、峰町、上県町、上対馬町と島内に6つあった町は、2004年3月1日に大同合併し、「対馬市」が誕生した。

万松院・百雁木

万松院・百雁木
(対馬市厳原町、2004.8.28撮影)
万松院・山門

万松院・山門
(対馬市厳原町、2004.8.28撮影)
厳原本川沿いの景観

厳原本川沿いの景観
(対馬市厳原町、2004.8.28撮影)
厳原・石積みの見える風景

厳原・石積みの見える風景
(対馬市厳原町、2004.8.28撮影)

フェリーは、午前6時、厳原のフェリーターミナルに到着した。台風の遠い影響で、空はどんよりとしており、風は強い状態が終始続いていた。雨は落ちていない。桟橋から、市街地へと向かう。港の周辺は、切り立った岩壁が海岸に迫る地形となっている。ただし、それらの多くは穏やかな丸みを帯びた印象であった。加えて、背後の稜線もこんもりと照葉樹の森を抱いて穏やかに展開しているため、圧迫感のようなものは感じられない。港を跨ぐ道路を左手に、港へ流れ込む厳原本川の流れに沿って展開する穏やかな市街地を進んだ。一見して、懐かしい雰囲気を感じるのは、本土では当たり前となったコンビニエンスストア(皆無ではない)やドラッグストアなどのきらびやかな意匠の店舗が少ないこと。とはいえ、飲食店や商店、事業所は思いのほか立地している。一定の利便は保たれながらも、落ち着いた顔をした商業地。1980年代くらい、私の少年時代の頃の街並みを見ているようだった。

厳原の町を奥ゆかしくしているのは、城下町の佇まいを今に伝える、屋敷塀の石積みである。伝統的な景観を演出するため、現代に形成されたものに混じって、家々のあわいに昔ながらの石垣の屋敷塀が残されている。それらの間には、穏やかに表面が浸食された石造りの鳥居も納まっていた。それらの奥ゆかしい建造物による街並みは、家々の背後に迫る照葉樹の緑と絶妙なコントラストを示していた。対馬支庁の敷地は、かつては対馬府中藩宗家家老氏江家の屋敷地であった。現在、ここには石垣、長屋門及び庭園が残されており、往時の姿を留めている。国道382号線となっている支庁前の大通りは、藩政時代は「馬場筋」と呼ばれる目抜き通りで、道路の両側に豪勢な石垣の屋敷塀を配した武家屋敷が建ち並んでいた。対馬支庁の隣には、保健所があり、さらには国道沿いに職業安定所、裁判所、警察署、検察庁と行政・司法機関が立ち並ぶ。人口10万人程度の都市とほぼ同程度の集積ぶりだ。離島ゆえの事情といえる一方、厳原の町としての「凄み」というか、奥の深さのようなものをそれは物語っているように思われた。一藩の城下町であった厳原のメイン・ストリートは、現代にあってもその輝きを失っていないということだろうか。

対馬の家並みには、必ずといっていいほど、鮮やかな輝きをはらんだ照葉樹の森が重なる。石積みや穏やかな集落景観が、山がちな地形に寄り添いあいながら佇んでいる。対馬府中藩藩主で、江戸期まで本邦における朝鮮貿易の橋渡し役を果たしてきた宗家菩提寺の万松院(ばんしょういん)の結構や、墓所へと続く百雁木と呼ばれる参道も、しっとりとした緑のもとにあった。厳原から島南部の豆酘(つつ)方面へ向かい、内山峠を越えて西海岸に出ると、谷間や海岸の僅かな平地に展開する水田のある風景がそこにあって、集落や山林の緑とともにたおやかに海に向かっているように感じられた。「椎根の石屋根」は、県指定の重要文化財。対馬では、古来より穀物を中心とした食糧を石屋根の倉庫に保存することが行われていた。島内に産する石を用いた倉庫は、水田の中に何気なく、かつしっかりと建っていて、その容姿はどことなくアジアの田園風景のテイストをはらんでいるように感じられた。石屋根は、北西からの強風や火事の類焼を防ぐためともいわれているとのこと。現在では、石屋根倉庫の多くは瓦やトタンなどに葺き替えられてしまっており、厳原の西海岸などにわずかに残るのみなのだそうだ。

椎根の石屋根

椎根の石屋根
(対馬市厳原町、2004.8.28撮影)
和多都美神社、海の中の鳥居

和多都美神社、海の中の鳥居
(対馬市豊玉町、2004.8.28撮影)

対馬は、山と緑が海に向かいしずかにたゆたう大地。ドライヴしていて、快い、みずみずしい、心が和やかになる景色がその色彩を微妙に変化していく。豊玉町にある和多都美(わだつみ)神社は、そんな対馬の風土を象徴する事物の1つだ。シイノキ、ウラジロガシを中心とした社叢は、北方系のイヌシデや、大陸系のオオチョウジガマズミ、ケイリンギボウシ、高地性のアズミナシ、イロハカエデ、ヤマボウシ、ハナイカダ、ウリノキ、ナガヤノコウヤボウキなどの多様な種によって構成されており、海−かつては陸続きであった−を介して大陸と一体であった対馬の歩みを記録しているかのようだ。ちなみに、「和多都美神社の社叢」は長崎県指定の天然記念物である。和多都美神社は、緩やかに陸に入り込んだ浦に向かって、5つの鳥居があり、そのうち2つは海面上に作られている。潮の干満により、2つの鳥居の足許は、干潟となったり、しずかな浅い海面となったり、自然の時の流れの中でさまざまな表情を見せる。対馬の歴史が、海とのかかわりで編まれたこと、その貴重なドキュメントの堆積が、いかに貴重なものであるかということを、物語っている風景のように感じられた。
その累積の中にはまた、数多くの悲哀や憂いも重なる。それゆえに、対馬の美しさは貴い、そう心より思う。


             “城下町”佐賀

対馬で一泊した翌朝出航予定のフェリーは、台風の影響でとうとう欠航となってしまった。台風は東シナ海を北上し、九州をうかがう位置にまで接近しているようだったが、どんよりした空、強風、しかし雨は落ちていない、という天候は昨日のままであった。壱岐への渡航ができなくなったため、対馬空港より福岡空港に降り立ち、その足で博多駅、鳥栖駅での乗換えを経て、佐賀へと入った。この日のフィールドワークのルートは、佐賀駅から佐嘉・松原神社を経て大隈重信記念館・旧宅へ向かい、佐賀城址、与賀神社、高伝寺と歩いた後、本庄地区を北上して長瀬町付近の旧長崎街道へと至り、八戸(やえ)地区を一旦西した上で東へ、市街地方面へと歩を進めながら再び駅前へ戻るというもの。基本的に徒歩での移動で、唯一、途中大隈重信旧宅から佐賀城址までは佐賀市営バスが運行する無料循環バスを利用した。

佐賀の町には、大小さまざまな水路が巡っていることは、よく知られていることであると思う。実際、多いと感じた。住宅地の間、ビルの谷間、商店街の脇、道路の横など、いろいろな地域に、それこそ“縦横に”水路があるという印象である。また、街路樹として緑鮮やかなクスノキが多く植栽されていることも佐賀の町の特色の1つ。クスノキは佐賀県の木であり、その花も県の花としてシンボライズされる存在だ。これら水と緑とが豊かに重なり合う都市景観が、佐賀の町の基底に脈々と息づいているようだった。松原神社は、県庁の北東、県庁とは濠を隔てた一角に鎮座する神社で、「日峯(にっぽう)さん」と呼ばれ親しまれている(「日峯」は、藩祖鍋島直茂の法号)。神社の北側を流れる松原川沿いは、親水公園のように水と緑に親しめるつくりになっていて、境内のクスの大木や社殿の結構、周辺の高層マンションなどの近代建築物等がとても快い。佐賀城址のクスノキは、県指定の天然記念物で、城址一帯におよそ120本の大木・古木が繁茂している。特に、濠端のものは樹齢300年を越えると推定されるとのこと。広い堀の水面にせり出すように、大空を掴むように、市民をやさしく包み込むようにいっぱいに枝を広げるクスノキの群れは、とてもすがすがしく、そして頼もしく思われた。なお、これらのクスノキは、藩祖鍋島直茂が慶長年間に拡張・強化して近世の佐賀城に構築した頃に、松とともに植えられたものと推定されている。

松原川の景観

松原川の景観
(佐賀市松原二丁目、2004.8.29撮影)
呉服元町付近の水路

呉服元町付近の水路
(佐賀市呉服元町、2004.8.29撮影)
松原神社付近の松原川

松原神社付近の松原川
(佐賀市松原二丁目、2004.8.29撮影)
佐賀城址・鯱の門

佐賀城址・鯱の門
(佐賀市城内二丁目、2004.8.29撮影)
佐賀城址・北側の濠

佐賀城址・北側の濠
(佐賀市城内二丁目、2004.8.29撮影)
与賀神社

与賀神社
(佐賀市与賀町、2004.8.29撮影)

佐賀城は、濠の内部に沈み込んでいるかのように建設され、かつクスノキや松によって覆い隠すような姿をしていたために、葉隠(はがくれ)城、沈み城とも呼ばれた。今日、佐賀城の痕跡は国の重要文化財である「鯱(しゃち)の門」と「続櫓(つづきやぐら)」のみである。その簡素で均衡のとれたデザインが美しい入母屋の門は、往時の佐賀城の姿を想起させる。2004年8月には、さらに佐賀城本丸御殿の一部建物をなるべく忠実に復刻したという県立の「佐賀城本丸歴史館」が開館した。今後、佐賀城や城下町の歴史を発信する拠点的な施設としての機能を併せながら、城内地区(佐賀城址における濠の内側の地域)の施設・景観の整備が進められる。

城址の西に接して鎮座するのは、龍造寺家・鍋島家の信仰も厚く、佐賀城の鎮守として親しまれる与賀(よか)神社である。社前の鳥居は柱の根元が太く重厚なつくりをしており、一見して普段から目にしている鳥居とは趣を異にしていると感じられた。果たして、与賀神社の鳥居は「肥前鳥居」と呼ばれる、佐賀県を中心とした地域に分布するこの地域独特の形式の鳥居で、与賀神社のそれは1603(慶長8)年に造られたとされるものであるという。肥前鳥居は、(1)基本的に柱が三本継で、下のほうが太い、(2)笠木と島木(鳥居の横に渡されている部材のうち、上側にある部材の上部を「笠木(かさぎ)」、下部を「島木(しまぎ)」と呼ぶ。下側の部材は「貫(ぬき)」。)が一体となり、貫も含めやはり三本継となる、といった特徴を持つ。この鳥居は道祖元町(さやのもとまち)から社前へと続く参道に設置された3つの鳥居の1つであり、三の鳥居にあたる。この三の鳥居、小川に架けられた石橋、社殿の手前の楼門はいずれも国指定の重要文化財である。朱塗りの楼門や社殿、拝殿が鮮やかなクスノキに抱かれながら佇む風景を刻みながら、与賀町の交差点を南に折れ、拡幅工事の進む街路を進む。佐賀大学のキャンパスを一瞥し、国道208号線となっている幹線道路を西へ。鍋島宗家の菩提寺・高伝寺を訪問することが目的であった。

高伝寺を後にし、本庄地区を北へ進む。田園風景と住宅地が混在する穏やかな近郊住宅地域の感のある地域で、やはり豊かな緑、潤沢な水路が特徴的であった。本庄神社の立派な肥前鳥居・社殿や、与賀神社へと続く参道の起点道祖元町における昔ながらの町屋が美しい景観などに感動しながら、長瀬町へ。町内は、佐賀城下町を東西に貫いた旧長崎街道のルート上にあり、「こくら道 ながさき道」と刻まれた道標もある。道標は人差し指を突き出した「こぶし」が刻まれ行き先を示している。長崎街道筋の道路の側溝の蓋は大名行列をあしらった絵が描かれていて、道路も薄茶色にカラーリングされているので、容易に街道筋を辿ることができる。旧街道は現在の都市の感覚では道路というよりは「路地」と言ったほうがしっくりくるような規模で、城下町ではしばしば見られるように、時々「コ」の字状に屈折しながら、佐賀の町を続いている。沿道には、城下町時代から続いているのではないかと思われるような、昔ながらの町屋がいたるところに残されている。歩いても、歩いても、そうした奥ゆかしい、近世から近代にかけて見られたであろう、都市の家並みが連続していくのである。これこそ、“城下町”佐賀の凄みであろうか。

沿線には、八戸(やえ)の地蔵菩薩や屋根看板を掲げた老舗薬店、城下町の防衛のため見通しを悪くする意図があるとされる鋸形の家並み、築地(ついじ)の反射炉跡(市立日新小学校の校庭の一角)や北面天満宮、伊勢神社といった城下町佐賀の姿を濃厚に残す史跡が豊富に点在している。今回は訪問することができなかったが、呉服元町や柳町付近にも、城下町佐賀を今に伝える旧家や街並みが見事なまでに残されている一角が存在する。佐賀でのフィールドワークの最後に、このような素晴らしい景観を目の当たりにし、佐賀の町の凄さを強烈に印象づけられることとなった。

本庄神社

本庄神社
(佐賀市本庄町本庄、2004.8.29撮影)

長崎街道・道標

長崎街道・道標
(佐賀市長瀬町・2004.8.29撮影)
※側溝蓋の絵柄にも注目してください。
長崎街道・鋸形の家並み

長崎街道・鋸形の家並み
(佐賀市八戸一丁目、2004.8.29撮影)
※家の敷地が鋸状に道路に出っ張っています。
長崎街道沿線の街並み

長崎街道沿線の街並み
(佐賀市長瀬町・2004.8.29撮影)



佐賀(県・市)は、県としても、都市としても、規模的にはあまり大きいほうではない。経済地理学的に見ても、福岡大都市圏の影響を受けた、県庁所在都市としてはやや中枢管理機能に欠けるとする分析が多い。県としても一時的に長崎県の一部となった時期もあった。シーボルトが西国随一の大都市と紹介した町に与えられたレッテルとしては、あまりにも寂しい。しかしながら、この町は県庁所在都市としての役割を与えられ、今日でも市街地の再開発を進めながら、先人が培った水と緑の景観と調和したまちづくりに邁進している。そして、城下町としての数々の貴重な遺産を今に伝え、この町にしかない数々の魅力が豊富に存在している。

県の新しい玄関口となった佐賀空港へのアクセス道路として位置づけられた県庁東の道路と、佐賀駅南口から続く駅前通りとを連結するために近年新設された橋の名前は、「くすの栄橋」。橋建設の際、樹齢350年の大楠があり、大がかりな移植が行われた。橋の名称「くすの栄橋」は、「この橋の建設のために場所を譲ってくれた大楠に感謝し、佐賀がますます栄えていくように」との願いを込めての命名であった。「栄」はまた、「佐賀」の名称の由来とも重なる。肥前風土記には、「日本武尊が御巡幸の時、楠樹の栄え繁る有様を見られ、この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう、と申され、その後『栄の都』といい、改めて佐嘉郡と呼ぶようになった」との記述がある。佐賀城は、「栄城」とも呼ばれる。栄えある都・佐賀の今後に、大きな期待を寄せたい。


             壱岐の輝き

佐賀でのフィールドワークを終えた日の翌日(30日)、ついに台風は九州に上陸し、西日本から日本海へ抜けた。佐賀県地方でも夕方まで暴風が吹き荒れ、JRの復旧は夜半にずれ込み、長崎への到着は午後11時30分となってしまった。

台風一過の31日は、長崎駅前から長崎県営バスが運行する高速バスに乗車し、佐賀県呼子のフェリー桟橋へと向かった。佐賀県域である呼子まで長崎県がバス路線を運行するのは、呼子港から壱岐・印通寺(いんどうじ)港へと向かうフェリーが発着するためであろう。壱岐は、対馬とともに行政上は長崎県に属する。バスは、フェリーの出航時間に併せて運行されている。この日は、台風の残した風浪の強さのため、朝一番の便が欠航していたが、県営バスがリンクしていた午前10時40分発の便から運航が再開された。印通寺港への到着予定は午前11時50分。この日の佐賀空港から羽田へ帰る予定に間に合うためには、印通寺港を午後2時30分に出航するフェリーで再び九州に戻らなければならない。壱岐での滞在時間は約2時間40分という強行日程となる。台風でおよそ2日間にわたってフェリーは運休したためか、再開された最初の船には、多くの人々が乗船してきた。いよいよ、玄界灘へと出航である。

呼子港遠景

呼子港遠景
(佐賀県呼子町沖、2004.8.31撮影)
七ツ釜(土器崎)方向

七ツ釜(土器崎)方向
(佐賀県呼子町沖、2004.8.31撮影)
左から加部島、松島、加唐島

左から加部島、松島、加唐島
(佐賀県鎮西町沖、2004.8.31撮影)
壱岐遠景、手前は妻ヶ島

壱岐遠景、手前は妻ヶ島
(壱岐市石田町沖、2004.8.31撮影)

※佐賀県呼子町・鎮西町は、2005年1月1日、唐津市ほか5町村とともに対等合併し、新しい唐津市となりました。

東松浦半島の先端に深く切れ込み、加部島によって外海から守られた、天然の良港・呼子を出たフェリー「げんかい」は、かあんと晴れ上がった青空のもと、快調に海の上を進んでいく。加部島の東海岸の断崖をみやりながら、反対の方向に目をやれば、景勝地・七ツ釜を抱く土器崎が海面の彼方に浮かんでいる。小川島、加唐(かから)島、松島を右手に、馬渡(まだら)島を左手に、台風の遠い影響でまだやや波の高い玄海灘の航海は続く。九州本土がだんだんと霞んでいく。馬渡島の島影の彼方にうっすらともうひとつ島のシルエットが水平線に浮かぶ。確証は持てないものの、方向から判断して的山(あづち)大島ではなかったか。遥かなる昔、大陸から人や文化、そしてさまざまな物が海を渡ってきた。島は大海に浮かぶ小宇宙のごとき、閉鎖空間として独自の文化を育んだ一方で、大陸へ向かう階として運命的な役割を担ってきた。海に浮かぶ宝石のごとき、輝かしい島々たちの間を通り抜けると、壮大な気持ちになってくるよう。2000年現在、小川島には171世帯575人、加唐島には80世帯217人、松島には26世帯92人、馬渡島には184世帯601人が生活を営んでいる。漁業や観光に暮らしながら、カトリック文化や元寇の惨禍といった外国と向かい合わせの歴史を刻みながら、今日でも穏やかに輝く島たちである。やがてフェリーは、妻ヶ島によって外海から守られた壱岐・印道寺港へと入港していった。フェリーターミナルには、「祝 平成16年3月1日 壱岐市誕生」の横断幕。対馬市誕生と同日、郷ノ浦町、芦辺町、勝本町、石田町の壱岐4町は大同合併し、新市としてスタートを切っていた。港でレンタカーを調達し、島をざっと巡ってみることとした。

壱岐は、全体として平坦な容貌の島である。印通寺から島の中心的な集落・郷ノ浦へのルートに近い壱岐の最高峰・岳ノ辻(たけのつじ)からは、集落と、水田と、そして緑鮮やかな山林とがなだらかに連続している様子を手に取るように眺めることができた。たおやかという表現がこれほど的を射る景観は、そうはないのではないか。背後に広がる大海原の滑らかな輝きそのままに、壱岐の大地は極上の輝きを呈していた。

壱岐は豊穣の大地である。島最大の河川・幡鉾(はたほこ)川の流域には、広大な水田が展開する。その光景は、ここが面積にしてわずか138平方キロメートルほどの島であることを忘れさせるほどだ。壱岐の人口は2000年国勢調査時で33,538人、対馬にはそれより多い41,230人。しかし、対馬は708平方キロメートルという広大な島である。人口密度で比較すれば、1平方キロメートルあたりで壱岐が242人に対し、対馬は58人となる。壱岐は島としては珍しく、米を自給できる島である。水田の大半は黄金色の穂波をなびかせて、一部の水田では稲刈りが行われ、稲穂が干されていた。海からの恵み、そして潤沢な農産物に育まれる大地は、今も昔も、多くの人々にとって、かけがえのない生活の舞台であり続けている。

岳ノ辻からの眺望

岳ノ辻からの眺望(北方向)
(壱岐市郷ノ浦町、2004.8.31撮影)
郷ノ浦の街並み

郷ノ浦の街並み
(壱岐市郷ノ浦町、2004.8.31撮影)
壱岐の水田、芦辺町深江栄触付近

幡鉾川流域の水田を遠くに望む
(壱岐市芦辺町、2004.8.31撮影)
はらほげ地蔵

はらほげ地蔵
(壱岐市芦辺町、2004.8.31撮影)

島の行政・商業の中心地・郷ノ浦を歩く。フェリーの埠頭には博多からノフェリーが到着し、多くの乗客が島に降り立っているところであった。郷ノ浦は、永田川が海に流出する部分、河口が深く湾入した格好の場所に発達している。沖には大島や長島、原島などの島々が、カーテンのように港を擁護してくれている。地形的には海岸段丘が間近に迫って、平地はわずかだ。しかし、その分だけ中心街の密度は高く、町としての中心性は大きい印象である。水辺にゆったりと寄り添う町は歩く人も多い。
壱岐は、大地も、まちも、人も、いきいきとした「輝き」に包まれているように感じられた。

郷ノ浦を後にし、山林、水田、集落、そして海とが互いに接しあう、壱岐の大地を軽やかに疾走した。原(はる)の辻遺跡、はらほげ地蔵といった、事物にも触れることができた。暦の上では初秋とはいえまだまだ残暑とは言い難いような夏の暑さが降り注ぐ中、海は輝き、大地は輝き、すべては溢れんばかりの光の中にしずかに佇む。再び、印通寺から出航したフェリーの上から眺めた壱岐の姿である。


壱岐・印通寺港

壱岐・印通寺港
(壱岐市石田町沖、2004.8.31撮影)




Regional Explorer Credit
2004年8月27日  羽田発福岡行き最終便で福岡入り。フェリー埠頭へ向かう。        
      8月28日  台風の影響で出航がやや遅れたものの、対馬・厳原行きフェリーに乗船。午前6時30分厳原到着。1日対馬島内をドライブ・フィールドワークし、厳原にて宿泊。
      8月29日  フェリーは台風のため全便欠航。飛行機で福岡へ移動し、JRで佐賀市へ移動。佐賀市内をフィールドワークした後、佐賀市内にて宿泊。
      8月30日  台風16号の暴風域にほぼ終日入った影響で、JRは始発より全線運休。夜半に復旧し、何とか長崎市内へ移動、宿泊。
      8月31日  長崎駅前から佐賀県・呼子へバスで移動。フェリーで壱岐・印道寺港へ渡航。壱岐島内をドライブした後再び呼子へ戻り、唐津を経て佐賀市内へ移動、佐賀空港より羽田へ、そして帰宅。

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