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#10 仙台駅東口の地域は今(後) 〜原町と鉄砲町〜 二十人町の状況を瞼に焼き付けながら、今は地下になった榴ヶ岡駅方面へ、仙石線の廃線跡を辿りながら歩きました。榴岡駅までの間は、線路の跡は部分的にしか残っておらず、マンションが建っていたり、また建ちつつあったり、区画整理が終わるまでの間の仮設店舗が建てられていたりと、早晩区画整理の波に洗われてしまうのではないかと思われました。宮城野通りの突き当たりは、宮城野原公園総合運動場です。上述した地形図によると、明治以降は練兵場として使われていた土地のようです。その中に、プロ野球の試合も行われる宮城球場があり、私が訪れた7月20日には、高校野球の宮城県大会が行われているようでした。その1か月後、宮城代表が決勝に進出する快挙を成し遂げようとは、その時は夢にも思いませんでした・・・。 宮城野原駅のあった仙台育英高校西側から、この付近ははっきりと残っている仙石線の跡を辿り、陸前原ノ町駅へ。この駅舎は、線路が地下化されてから新築されたもので、駅前には国道45号線方向にまとまった広さの駅前広場が造成されようとしていました。駅に接して宮城野区役所が立地し、付近は商業集積もあることから、利便性の高い近郊の市街地となっているように思えました。駅からほどない場所の原町三丁目交差点まで、往時は仙台市電が通じていました。
この交差点から、一本北の細い路地に入っていくと、表の国道の喧騒から開放された、穏やかな商店街があります。ここから第二法務合同庁舎前まで、国道に並行してつづくこの原町商店街は、かつて宿場町を継承したものです。原町は、宮城野原の原野に臨む土地柄から命名されたと言われ、藩政期は石巻街道から仙台城下へ入る手前の関門として宿場町が形成された町でした。「宮城郡原町」(1928.4.1に、仙台市に編入)となった明治大正期には、宮城郡役所が立地してこの地域の中心街としての地位を保ってきた伝統ある地域です。現在でも、古くからの商店とスーパーマーケットなどの現代の店舗がほどよく調和しながら、一定の人通りもある元気な商店街であるように思われました。道路の構造もそんな歩行者に配慮したものとなっているようでした。道路は石畳を基調としながら、所々に道路に張り出して植え込みがつくられており、自動車がスピードを出せないよう配慮された設計になっているのでした。昔懐かしい銭湯や、かつて要衝であったことを今に伝える道標石(仙台市指定文化財)が存在し、また櫛型の土地割も健在で、道に面した商店の裏は穏やかな住宅地となり、緑も所々にあって、中心市街地にも至近なことも考え合わせれば、良好な近隣住宅地としての資質は十分に備えた地域なのではないかな、と思われました。 穏やかな商店街が続く原町も、一丁目に入り、中心市街地に近づくにつれて高層マンションが多くなり、より近代的な性格が強くなります。やがて、国道45号線に達しました。ここから、かつての石巻街道は国道を横切って、鉄砲町・二十人町地域に入り、仙台城下へ入っていきます。現在の仙台管区気象台がある場所には、仙台藩領内の年貢米を貯蔵した原町御米蔵がありました。このことも、仙台城下と郊外との接点としての原町の拠点性を示す事実であるように思います。
国道を横断して、再び駅前の区画整理事業が進行しつつある区域に入りました。二十人町の北に並行する鉄砲町です。この地域も、二十人町同様、この付近を代表する、活気に溢れる商店街として多くの住民から親しまれた地域でした。ここも、わずかに2〜3年前までは、石材店や瀬戸物屋、八百屋、肉屋などの歴史の古い多くの商店が軒を連ねる光景が広がっていたようです。仙台信用金庫と七十七銀行の「鉄砲町支店」も存在しています(ただし、七十七は国道に面した立地です)。そんな昔ながらのまちも、区画整理の対象地域となり、急速に店舗の移転が進み、空き地が増えてきているようでした。そして、エックス橋を降りてきた自動車が次々と通過していくのでした。 町のほぼ中央に、「鉄砲町町民館」と隣接して和光神社があります。建物の取り壊しが進む地域の中にあって、この付近は鉄砲町の記憶を留めるかのように、豊かな佇まいを見せているのでした。おそらく、区画整理施行後も、これらの寺社やコミュニティ施設は何らかの形で残されるのではと思うのですが、鉄砲町が育んできた雰囲気をできるだけ残す配慮をしてほしいと切実に思います。
この神社の東側の細い横丁は「明神横丁」と呼ばれます。勿論、明神様(和光神社)に接していることからの命名です。の鉄砲町と南の二十人町との間には3本の横丁が結んでいるのですが、その3つすべてに俗称が与えられておりまして、西から「猫屋横丁」、「明神横丁」、そして「於多福(おたふく)横丁」というのだそうです。これら両町の往時には、こういった味わいのある名前がぴったりとはまる景観だったのでしょうか。しかし、現在これらの横丁は広がりつつある空き地の間を走るもの悲しい小路へと変貌する途上にあります。
鉄砲町を東へ、エックス橋の方向へ歩きます。空き地が多くなりながらも、立派な店構えのお茶屋や飲食店などの町屋が点在して、鉄砲町の歴史を静かに、しかも強烈に訴えかけます。都市が産業の趨勢などによって成長したり衰退したりしていくように、都市の中の諸地域も時代の流れに伴って変化を遂げていくものです。その反面、その地域が紡いだ歴史は着実に時代へ伝えられ、その地域の「深み」として蓄積されてきました。それをいかに新しいまちづくりに生かしていくことができるか、慎重に、注意深く、この地域を見守っていきたいと思います。 |
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