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#11 河原町から荒町へ 〜旧奥州街道沿いの古い面影の残る町〜 1970年2月1日に施行された、仙台中央地区の住居表示の実施によってブロックごとの新町名へと整理される過程の中で、多くの町名が見かけ上は姿を消していきました。一方において、現在においても昔ながらの町名が多く残っている地域もあります。仙台城下町の南郊、荒町から河原町にかけての地域においては、住居表示未実施の地域が広く展開しており、味わいのある町名が実際の住所として数多く残っています。2003年7月20日、仙台駅東口の地域を歩いた後、私は地下鉄に乗り込み、広瀬川左岸の河原町を目指しました。 河原町駅を出ると、目の前は行き交う自動車の多い、国道4号です。この道は、かつては市電長町線が通過した市電通りでした。この辺りは戦前は穏やかな住宅地で、東郊の水田地帯への視界も開けるほどの場所であったようです。現在は中高層の建築物も多く立地する、都市近郊の住宅地域となっています。その中で異彩を放つのが、広瀬川に沿って屹立する高層マンション「ツインタワー広瀬川」でしょう。この高層マンションは、新幹線の車窓からもはっきりと眺められますので、記憶されていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。 河原町は、伊達政宗が晩年を過ごした御隠居所である「若林城(現在の「若林区」の名の由来)」の造営に伴い、城下が南に広がったときに新たに発達した町のひとつです。町の形成後に、現在の宮沢橋の所を渡河していた奥州街道が河原町と長町の間の長町渡し(後に、長町橋が架橋された)経由に変わって以来、仙台城下の南の玄関口として発達し、名取郡からの農産物が集る活気ある町となりました。
河原町駅から程無くして、堰場(どうば)から広瀬川の水を取水した七郷堀(仙台堀)にさしかかります。住宅地の間を穏やかに流れていく七郷堀は、東へ下るにつれて次第に農業用水としての本来の姿がよみがえって、仙台平野の穀倉地帯を潤す、恵みの水となっていきます。七郷堀に接して、昔ながらの建物が美しい和菓子店が佇みます。町屋風の建物は、付近の落ち着いた町並みを見事に、そして慎ましやかに演出しているように思えます。このあたりから、奥州街道筋の「南材木町」、その西に接する「舟丁」など、藩政時代から継承される町名が並ぶようになります。
この交差点から奥州街道は西に折れて、荒町に至ります。このあたりまで来ますと、仙台の中心市街地も間近になり、国道4号が近くなるにつれて高層マンションが次第に多く立地するようになります。商店街も規模が大きくなり、商店の種類や数も増えて、市街地に接した活気ある商店街であるように思われました。荒町は藩政時代、仙台城下にあった6つの「御譜代町(ごふだいまち)」の一角を占める伝統ある町場でした(残る5つは大町、肴町、南町、立町、柳町)。御譜代町は伊達家が米沢から岩出山、仙台と移転する際に共に追随した由緒を持つ町で、それぞれ商品の専売と御日市(おひいち)と呼ばれる定期市の開催が特権として与えられていました(荒町は麹製造の特権が与えられた)。 地内にある毘沙門堂は、庶民の信仰の篤いお社として荒町に鎮座しており、私が歩いた7月20日には、商店街に「毘沙門天」の赤いのぼり旗が歩道に沿って多数翻り、例大祭が近いことを告げておりました。高層マンションが林立する中にあっても、昔ながらの商いを続ける商店や、蔵、そしてゆかりの古い毘沙門堂をはじめとした、満福寺、皎林寺、常念寺、昌伝庵などの古刹もまた存在する荒町は、東北の中枢都市としての仙台と、城下町として繁栄した古くからの仙台とが、同居する町となっております。相変わらず交通量の多い道路の様子を見ながら、新旧住民との関係とか、町並みが現代化していく中にあってもなお、この町が古くからの伝統を生かした町としてのコミュニティを存続していくかどうかとか、そんな思いをめぐらせもいたしました。 やがて、荒町は、国道4号の大幹線道路に至ります。ここから、奥州街道は五橋通や北目町通などの幹線道路と交錯しつつ、何回か屈折を続けながら、現在の国分町通へとつながっていきます。荒町にまで至ると、旅人は仙台城下の中心もいよいよ間近と、期待に胸を弾ませたことでしょう。 |
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