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#22 連坊と新寺を歩く 〜近代化著しい“寺町”〜 JR仙台駅の東南に、新寺(しんてら)地区と連坊(れんぼう)地区とがあります。ともに新寺小路、連坊小路を中心とした地域です。新寺小路は、元は八つ塚(やつつか)と呼ばれた地域で、仙台城下町の拡張に伴い、元寺小路周辺に置かれた寺院が移されてきたことから、「新寺小路」と呼ばれるようになりました。新寺は、現在でも藩政期から続く大坊が多い地域となっています。なお、元寺小路は、勾当台公園あたりの高台から広瀬通の一部を経て鉄砲町に至る城下随一の幹線道路で、仙台開府当時の寺町でした。定禅寺通や光禅寺通、花京院などの地名は同名の寺院があったことによる地名です。一方の連坊小路は、「坊が連なる」という言葉のとおり、やはり寺院にまつわる地名です。若林区木ノ下にある陸奥国分寺が隆盛であった頃に、門前からこの連坊小路に沿って24の塔頭の坊があったのだそうです。藩政期には一部足軽や御小人の居住する場所になり、現在では商店街も発達しました。その一方、新寺同様多くの寺院が存在していまして、寺町としての往時もまた、今に伝えているところとなっています。
仙台駅東口の周辺地域については、拙稿「仙台駅東口の地域は今(前)」にて、主に戦後における地域の沿革を整理しました。相対的に戦災による被害が少なかったこの地域は、高度経済成長期を迎えても、戦前から続く下町的な住商混在地域としての性質を維持してきた地域でした。その後の土地区画整理で、南北の東七番丁、東八番丁、東九番丁、東十番丁、及び東西の新寺小路、連坊小路を基礎とした住所がモザイク状に、あるいは格子状に設定されていた地域は、宮城野大通沿線の「榴岡(つつじがおか)」、新寺小路沿線の「新寺」及び連坊小路北側の「連坊」の3つの住居表示に再編されました(連坊小路以南は住居表示未設定地域が多く、「連坊小路」の住所も残されています)。 交通局大学病院前から定禅寺通、仙台駅西口を経由して大和町方面へ向かう市営バスに乗り、新幹線・東北本線の高架下をくぐって、連坊のバス停を降りました。明治に入り、連坊小路は鉄路により分断され、西側を「上連坊」、東側を「下連坊」と呼ぶようになったそうです。上連坊は、一部住居表示が「五橋三丁目」となっており、駅前から連続する、高層建築物群が並ぶ景観を呈しています。そして下連坊へ近づくにつれ、それは中低層の住宅地・商店街が建ち並ぶものへと移り変わっていきます。木ノ下一丁目の西側までは道路も拡幅されています。連坊周辺には、仙台一高や第二女子高、聖ウルスラ学院、聖和学園高(新キャンパスが竣工しているようですね)などが立地しています。陸奥国分寺や薬師堂方面の緑を遠望しながら、都市計画道路の宮沢根白石線(連坊一丁目と同二丁目の境界になっている大通り。広瀬川・宮沢橋付近から仙台駅東側、宮城野区、泉区を経て根白石方面まで続く壮大な計画道路の一部とは、ちょっと驚きです)を北へ進みます。この付近から、区画整理によって出現した、広幅員の道路、整然とした区画という都市的な景観の中に、寺院の大きな建物が点在する景観を随所に認めることができます。
私が経由したルート上に近いもののみを拾いますと、瑞雲寺(連坊二丁目)、愚純院(新寺三丁目)、妙心院(新寺四丁目)、そして卸町を貫く大通りとなっている新寺小路を横断して、善導寺(新寺二丁目)、林香禅院(新寺五丁目)、区境を越えて孝勝寺(榴岡四丁目)と、多くの寺院の甍を目にすることができました。もちろんこれらはこの地域の寺院の一部でして、一部は仙台駅東口から割り出された大通り「宮城野大通り」に面しているものもあります。 仙台城下町の東から東南にかけてに展開し、「城の東の守り」としての役割も担った寺町は、戦後の区画整理の波を受けてその容貌を大きく変えてきました。中高層の近代的な建築物、広すぎるほどにも見える街路のなかにどっしりと構えるようにも見える寺院の多くは、藩政期からその位置を変えていないといいます。現在、榴岡地区の北側、鉄砲町・二十人町地域における土地区画整理が完成した暁には、仙台駅西口方面や原町方面からの交通アクセスが向上することになるものと思われます。その時、近代化著しいこの“寺町”はどのような姿を見せることとなるのでしょうか。
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