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シリーズ・クローズアップ仙台
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#27 北目町から五橋へ 〜現代都市に昔の息づくまち〜 仙台城下町を南北に貫いた旧奥州街道については、拙稿にて何度かお話ししてきました。堤町から通町へ北山の縁を南西に進んだ街道は青葉神社下より直線となり、現在の青葉神社通、国分町通を南へ、まさに仙台市街地を縦貫しました。南町通を横断し、北西から南東方向へ市街地を走る五ツ橋通を超えたところで旧街道は東北大学の施設の北に行き当たり、東へ折れます。道路は再び五ツ橋通に行き着き、一番町通と五ツ橋通の交差点で中断した後に道は東へ連続していきます。このあたりは「柳町」と呼ばれる町でした。柳町は伊達氏が米沢、岩出山を経て仙台に移る過程の中で代々従ってきた「御譜代町(ごふだいまち)」と呼ばれる商人町です。仙台開府の際は「元柳町」と呼ばれる地域(現在の住所では桜ヶ岡公園と立町の一部)にあり、1627〜28(寛永4〜5)年に大通りから離れた地であったことから現在地に移ったものであるのだそうです。米の専売特権を与えられたという商人町の面影を町の東端、提灯をたくさん掲げた大日堂に見つけました。縁日ともなると、多くの人々で賑わう町でもあります。大日堂の前より旧街道は南に折れ、北目町通の交差点からは五ツ橋通の大通りへと重なっていきます。
このあたりの五ツ橋通りは周辺に高層住宅が多く、事業系のビルも多い東隣の東二番丁近隣の街区と合わせて現代的な都市の景観が広がります。その一方で、二十三間堂の小さなお社や、和菓子店、染物店などの昔ながらの商店なども点在していまして、往時の雰囲気を感じさせています。華僑会館の建物はそんな新旧の入り混じるエリアにあって、独特のエッセンスを与えていました。北目町の西側は東北大学の片平キャンパスとなっており、高い建物が少ないことから、町並みもどことなく落ち着いて見えるようにも思えますね。北目町の名は名取郡郡山(現在の太白区郡山)の北目から仙台開府後に移ってきたことに由来します。奥州街道沿いの要所の町であったため、仙台城下町の中心「芭蕉の辻」と共に藩の御札場(藩の公儀に関することが掲示された掲示板)が設置されていました。染師が住んでいたことを地名に残す上染師町から田を潰して割り出されたことに因む田町にかけては、五ツ橋通から再び外れた狭い街路となって、個人商店や古い商家の背後に巨大な高層住宅が林立するエリアとなります。道は狭いながらも自動車の通行量は多いようでした。
五橋(いつつばし)は、一丁目から三丁目まで区画された、比較的広い範囲を占める住居表示です(一丁目と二丁目は青葉区、三丁目は若林区です)。住所地名としてはそれより狭く、連坊小路と愛宕上杉通の交差点から五橋交差点で東二番丁を越え、現在の五ツ橋通が北へ折れる交差点までの道路が五ツ橋通で、その沿線が住居表示施行前は「五ツ橋通」という住所になっていました。五橋は、その名のとおり五つの橋がその名の由来です。前出の愛宕上杉通(昔は「清水小路」という名前の道でした。住所に名前が残っていますね)と連坊小路の交差点には、5つの小橋が架けられていまして、橋の数から梅花橋(花びらが5枚だからですかね)という佳名でも呼ばれたのだそうです。現在では地下鉄の駅名をはじめ、中学校名などにも使用され、住居表示にも採用されたことからこの周辺を広く指す呼称として、「五橋」の名が多用されるようになりました。駅前の再開発ビル(アエル)などの高層ビルが建築されるまでは東北一の高さを誇った住友生命ビル(SS30、「エスエスサーティ」と呼びます)や壁面に東北地方の地図が浮かぶ河北新報社社屋をはじめ、数々の事業系ビルや高層住宅群のひしめくエリアへと変貌を遂げています。2005年2月21日には、一番町四丁目から仙台中央警察署が河北新報社南に移転してきました。 市立病院の西、愛宕上杉通と東二番丁とが分岐する「Y」の字型の交差点に立ちますと、目の前をおびただしい自動車が瞬く間に通り過ぎていきます。昔ながらのエッセンスを残しつつも、このエリアが現代都市の中にあって日々その装置を動かす血流を送り出しつづける場であることを実感させました。 |
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