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シリーズ・クローズアップ仙台
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#28 秋保エリアを歩く 〜温泉ではない、もう1つの秋保〜 1988年3月、かつての名取郡秋保町は仙台市に編入されました。翌89年4月に仙台市は政令指定都市に移行し、秋保地域は旧仙台市内の長町地区等と一緒に「太白区」の一部となり、現在に至ります。かつての秋保町の地域には住所に秋保町湯元とか、秋保町境野といったように「秋保町」が付されています。仙台市街地を流下する広瀬川をもその支流に持つ名取川の刻む河岸段丘上におよそ4,600人の人々が住むのびやかな山里です。 さて、秋保といいますと、多くの人が真っ先に秋保温泉を想起されるかと思います。「仙台の奥座敷」と呼ばれ、名取川の渓谷沿いに形成された豪奢な温泉街は、地域を代表する景観です。秋保温泉は「名取の御湯」として古来より名湯として知られていたようです。秋保地域の地誌に詳しい秋保・里センターのホームページの記述を引用します。 「拾遺集」「大和物語」などにも歌われ、 名取川の上流には「名取の御湯」といわれる霊験豊かな温泉があったということが遠く大和地方にも知られていた。 以後皇室の御料温泉として位置づけられ「名取御湯」と「御」の字を加えて尊ばれるようになった。 第84代順徳天皇のときには、皇室が選ぶ日本の名湯9ケ所の中に、信濃・名取・犬養の三温泉だけが「御湯」という称号をつけており、 古来これらは「日本三御湯」と称せられるようになった。 その後も時代を通じて秋保の湯は湯治の場として、また市民の憩いの場として大切に維持され、今日に至っているとのことです。 秋保はまた、仙台平野から山形方面へ向かう最短経路として主要な位置づけとなっていた二口街道(秋保街道とも)の街道筋に発達した町場としての顔も持ちます。上掲サイトによりますと、この街道は平安時代、山寺・立石寺を開基した慈賞大師が開いた道といわれていまして、室町時代以降近世は、塩釜から塩を運んだいわゆる「塩の道」として、また出羽三山(月山)へお参詣する信者が通行した「信仰の道」でもあったという、歴史のある道です。現在町名となっている「湯元」「境野」「長袋」「馬場」は、馬場地区西部の集落「野尻」とともに、二口街道筋における宿駅を基礎とした集落でした。温泉の町としての印象が極めて強い秋保のもうひとつの地域性を見つめようと、今回は総合支所(かつての役場)の立地する、長袋地区を歩いてみることといたしました。
山深い秋保の地域は湯治場としての温泉集落があった以外は長く大規模な人々の集住はなかったそうです。この地域に本格的な人々の足跡が記録に登場し始めるのは平安末期、秋保氏という土着の地方小領主でした。秋保氏の発祥は、一説にはいわゆる平家落人伝説とも結びついた、平清盛の子重盛「小松内府」をその祖とする平長基という人物が秋保の地に落ち延びて、秋保氏の祖となったいわれているのだそうです。このような伝説は各地に認められることからどこまでが史実かはうかがい知ることはできないものの、その時代から秋保が人々の生活の舞台として徐々に開発が進められたであろう傍証とはなると思います。 総合支所の近辺には、市民センターや体育館などが立地していまして、長きに渡り一自治体として秋保が存立してきた片鱗を感じさせます。支所東の道を南へ進みますと、程なくして東西の細い道に行き着きました。地図を確認しますとこの道路の西は「秋保神社」のあるあたりで街道筋に交わるようで、地域の名称をつけた神社の様子をふと見てみたくなり、西の方向へ進んでみることにしました。南は名取川の深い谷となっていまして、眼下の川はかなり下を流れていまして、長袋の集落が河岸段丘面の高台に位置していることを示していました。地形図を確認しますと、集落の乗る段丘面と名取川河床との比高は約30メートルほどもあるようです。周辺は民家が点在するのびやかな景観が続いていまして、遠望される奥羽山脈は残雪が輝き、名取川河谷を望む雄大な景色とも重なります。やがて到着した秋保神社は、木立の中に静かに佇んでいました。山門は倉庫のような機能を併せ持っているようで、地域の祭礼などに使用される用具類があるいは保管されているのかもしれません。「お諏訪さま」の名前で親しまれているという秋保神社は、秋保5か村(長袋、馬場、境野、湯元、新川の5村を指します。新川は現在の青葉区新川です)の信仰の中心として存立してきました。 秋保氏15代盛房が名取の長井氏との合戦に戦勝を祈願して諏訪神社を勧請したものであるそうで、明治期に地域の神社などが一括して合祀され秋保神社と改称しています(現在は社格の廃止に伴い地域の神社を合祀した神社ではなくなっているようです)。神社の参道を経て街道筋に出て、東へ、支所方面へと歩を進めていきます。
秋保五か村の中でも、長袋集落は秋保氏の居館が存在するなど、地域の中心として存立してきました。字名に「館」「町」などが見られるのはそういった地域の歴史の名残なのでしょうか。地形図で確認しますと秋保地域の中では比較的まとまった面積を持つ段丘でして、街道筋における主要な町場が形成される条件を備えた土地柄であるようです。道路から北側に時折広そうな水田が見えていたので、県道を反れてその様子を確認してみることといたしました。そこでの風景は・・・筆舌に尽くしがたいほどに感動できるものでありました・・・。この山のあわいの平地いっぱいに、まさに美田が、視界いっぱいに展開していました。付近の字名は「長袋新田」。江戸中期以降に開墾されてきた穀倉地域であることが推察されます。一般的に段丘面の中央部は水の便が悪いことから、水田には供されにくい地域であるとされます。ここの場合は水が沸きやすいと思われる丘陵も近くこの一般論は必ずしも当てはめにくい点はあるものの、やはりこれだけの水田を開発してきた苦労というのは並大抵のものではないと思われます。もちろん、現在の水田は近代以降に大規模に区画整理が行われた賜物であるわけですが、広々とした水田地帯を目の前にして、激しい感動を覚えずに入られませんでした。西には奥羽山脈の豊かな山並みも遠望されまして、どこまでも爽快な風景が作り出されていました。訪問したときは4月もはじめで、水田は引水前の土色を大きくさらけ出していました。やがて田植えの季節となるとここには一面の稲が植えられ、緑あふれる大地となり、秋には黄金の穂波となって結実する、1年1年のドキュメントが、脳裏に映像となって見えてくるような気がいたしました。 県道に戻り、秋保中学校の北付近まで来ますと人家の密度も大きくなり、ここから本砂金方面への道路が分岐するまでの区間(国道457号線となっている区間)が、長袋集落の主部を構成しています。本砂金への街道が分かれる付近には、検断(けんだん)と呼ばれる、街道を行く貨物などの検査を行っていた旧家が佇みます。山の形を模したと思われる秋保郵便局や、神明神社の佇まいなどを概観しながら、往時を偲びました。長袋地域を歩く前、国の名勝にも指定される秋保大滝の瀑布を見上げていました。落差55メートル、幅6メートルという大瀑布は、冬枯れの山々の中にあっても凛とした姿を見せ付けていました。豪快な滝の姿は、秋保地域の美しい自然をシンボライズするとともに、かつては今よりも遥かに強く存在した街道筋の町場としての秋保の歴史をも雄弁に語りかけていたのかもしれません。 |
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