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シリーズ・クローズアップ仙台
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#44 中山エリアを歩く 〜住宅地域化を読み解く〜 中山は古くは仙台城下町から北へ抜ける街道筋が通じていた場所で、現在の泉区野村付近へ通じたことから野村街道、あるいは中山道と称したといいます。この道筋に鎮座する中山鳥滝不動尊は、仙台地方における酉年生まれの守り本尊として信仰されています。このことには伊達家にまつわる謂れがあり、伊達家四代綱村が中山で鷹狩りをしていた折、滝の付近に美しい鳥を発見し近づくと鳥ではなく、滝に祀られた不動損の幣束であったといいます。これをうけて「以後、鳥滝不動尊と称しなさい」との下命があり、伊達家の篤い崇敬を受けたというものです。大きな町場がなく、山林が大きく広がる中山の地は、杜の都仙台を外側から取り囲む大いなる森として、長らく存在してきました。 高度経済成長期以降、1960年代付近から仙台都市圏の郊外化に伴い急激な宅地開発がこの地域を覆い、現在では南向きの丘陵地域にのびやかな住宅地が並ぶ景観となりました。1980年代以降は宅地の拡大は当時泉市であった泉区域まで拡大し、八乙女から仙台宮城インターチェンジまでを貫く仙台北環状線の完成は、各団地の有機的な接続を可能にし、モータリゼーションに対応して新たな郊外型の商業地域の成長をみました。現在住居表示上「中山」を称するエリアは青葉区にあります。しかし、その北、泉区内にも「北中山」「南中山」なる団地が存在します。これは仙台市内・旧泉市内を問わず、広くこの一帯が「中山」と呼ばれていたため、自治体が異なっていた時代に双方で「中山」を用いた街区が誕生、後の合併に伴いそれらの中山地区がすべて仙台市内に存することになったことに伴う現象です。中山にはこのほか、吉成地区との合成である「中山吉成」や「中山台」などの住所地名も生まれておりまして、広域地名である「中山」が現代においても息づいていることを示しているようにも思います。
国見から国見峠へ向かう街道筋をなぞるように歩き、弁天前のバス停まで着ますと、国見ヶ丘の住宅団地が眼下に見渡せるようになりました。遠方には青葉区北部のなだらかな丘陵地と住宅地との重なりを経て、台原森林公園の緑や高層マンションも見通せます。冬型の気圧配置が強まり、この頃から徐々に雪雲が脊梁山脈を越えて仙台平野にも侵入してきていたようで、十分に視界がきかなかったものの、天気がよければ北のほうには七ツ森などの山並みも望むことができるのではないかとも思われます。峠に近いこともあって、国見ヶ丘は仙台市街地を見渡す適地ともいわれていまして、特に夜景の美しさでは定評があるようです。国見ヶ丘の団地まで降りていく途中に、小ぢんまりとした弁天様があります。バス停の「弁天前」が指していたものです。国見の弁天様と呼ばれるこのお堂は、1701(元禄14)年に四代藩主綱村によりこの地に開基された寺院「臨済院」の弁財天堂です。大寺院であった臨済院も、現在ではこの弁天様を残すのみとなっているそうで、かつての堂地は豊かな緑に囲まれた歴史公園として整備されています。 国見ヶ丘団地は、1987年(昭和62)年より分譲開始された比較的新しい団地です。国見地域との連接を感じさせるこのエリアは、実は青葉区西部、愛子地区に中心集落を擁した旧宮城町の範域に当たります。同年は旧宮城町が仙台市に編入された年にあたり、住所が仙台市となることを見越した開発がこのエリアにおいて活発化したことを示唆しています(吉成地区も同様に旧宮城町の区域)。住宅地域や緑地帯を計画的に配置し、建ぺい率や容積率の上限を定めたり、街路と住宅敷地の間に一定に距離を置くことなどを定めたり、きれいな町並みを形成するための地区計画が定められている団地です。緑地帯も開発前から存在した「堤」とい呼ばれる小規模な谷間に水がたまったため池状の水辺を生かすなど既存の自然環境を団地内に取り込むなど、自然との共生を意図した団地づくりがなされているのも目を引きます。前述のように市街地への眺望も抜群です(ただし、そのために団地内に坂がやや多いのは否めません)。団地の中には造成前からこのエリアにあったと思われる昔ながらの住宅も共存しているのも興味深い点です。
北環状線は、仙台市北部と西部を直結する大動脈であり、多くの通行量があります。吉成、国見ヶ丘、南中山、長命ヶ丘、加茂などの団地を貫き、近年はロードサイド型の商業集積も卓越しまして、自家用車による郊外型のライフスタイルに適応した現代的な景観が形成されているエリアです。ジャスコ中山店はそれらの中でも中核的な店舗としてこの地域にオープンし、以降この地域の商業化を牽引しています。この頃から舞い始めていた小雪が本降りに近い状態となったため、ジャスコで休憩も兼ねて雪雲が行過ぎるのを待ちました。太平洋側の気候となる仙台は、冬季には乾燥した晴天が続くことが多い一方で、奥羽山脈の標高が関東周辺等に比べて低いために、強い寒気が入ったときなどは日本海側から雪雲が侵入することがしばしばあります。しかしながら、そうした降雪も本格的な大雪となることは稀で、ほとんど根雪となることは無く、晴れ間が戻ることもまた多いのが仙台の冬の特徴です。この日は雪雲の滞留時間が長く、結局住居表示上の中山地区から貝ヶ森あたりまではけっこうな雪の中を歩く羽目になってしまいましたが・・・。 中山地区は北山方面に向かってなだらかに下る斜面上に造成された住宅団地で、1966(昭和41)年頃から造成が始まった、団地としては比較的歴史のある部類に入ります。中山小学校の歴史は、この地域における団地造成とそれに伴う人口流入がどのようなものであったかを如実に示しています。1947(昭和22)年までは、国見や中山などの地域すべてが、なんと青葉区通町にある通町小学校の学校区でありました。その後、ここから国見小学校が分立(1954年)し、荒巻小学校が分立(1957年)し、中山小学校はそこからさらに1968(昭和43)年に分立しています。そして、中山小学校からは1970年代後半に川平、桜丘、吉成(当時は宮城町立)の各小学校が分立あるいは成立しています(上記記述は同校のホームページより引用)。この急激な開発の結果、ともすれば秩序無く小規模な開発がスプロール的に行われた地域も少なくない状況を生んだようです。中山地区を過ぎ、貝ヶ森地区に入りますと、上記の開発時期の違いによる宅地景観の差が理解できます。すなわち、貝ヶ森の中央、「恵通苑団地」はこの地域では最初に開発された昔からの団地であり、その後それを取り囲むように新しい団地が形成されました。この後に造成された街区は、国見ヶ丘同様諸施設の配置に際し地区計画がつくられています。貝ヶ森を通り、仙山線を越えますと、国見地区に入ります。2007年3月18日に、仙山線に新駅「東北福祉大前駅」が設置されます。フィールドワーク時は大学施設と連接した駅施設の工事が急ピッチで進められていました。国見から中山と歩きますと、仙台の高度経済成長期以降の宅地開発がどのようなものであったかの一端に触れることができるともいえますね。新駅の施設は保存緑地に食い込むように建設されているようにも見えます。 JR新駅を一瞥後、再び貝ヶ森を通過して「荒巻地区」方面へと進んでいきました。 ※貝ヶ森地区における2つの団地の違いは団地の形成過程を示す事例としてご紹介したもので、それ以上の意味はありません。ご了承願います。 |
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