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シリーズ・クローズアップ仙台

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#76 八幡町から半子町へ 〜四ツ谷用水と往時の面影を残す町並み〜

 2011年5月21日、震災から約2カ月が経過して、仙台市中心部では徐々に生活が落ち着き始めていたこの日、仙台を訪れました。前年12月26日以来の訪問となりました。気候もだんだんと初夏の雰囲気となり、青葉山丘陵をはじめとした木々もその濃さを増していました。この日は仙台市街地の西に位置する八幡エリアから活動を始めました。この地域が仙台開府後の1607(慶長12)年にこの地に創建された大崎八幡宮の門前町として発展してきたことは既に別項で触れてきました。城下町北西の守りとして高台に鎮座した社殿は、一部常夜燈などが倒壊し震災の影響がみられたものの、国宝に指定される社殿は以前と変わらぬ絢爛たる姿を見せていました。

大崎八幡宮付近

八幡町(国道48号、大崎八幡宮付近)の景観
(青葉区八幡三丁目、2011.5.21撮影)
四ツ谷用水

大崎八幡宮参道を横切る四ツ谷用水
(青葉区八幡四丁目、2011.5.21撮影)
大崎八幡宮参道

大崎八幡宮参道
(青葉区八幡四丁目、2011.5.21撮影)
大崎八幡宮

大崎八幡宮
(青葉区八幡四丁目、2011.5.21撮影)
八幡町

八幡町(国道48号)の景観
(青葉区八幡四丁目、2011.5.21撮影)
石切橋

石切橋(右奥の通りは覚性院丁)
(青葉区八幡二丁目、2011.5.21撮影)

 国道48号に戻り八幡町の街並みを一瞥しながら東へ、西友のあたりから北へ広瀬川が形成した河岸段丘に由来するゆるやかな坂道を上っていきました。やがて、その河岸段丘崖のへりにそって東西に続く暗渠(四ツ谷用水)に行き当たります。四ツ谷用水についてもまた本稿内で何度が取り上げています。藩政期に城下町仙台の生活用水に供するため、伊達政宗が広瀬川上流の郷六地内から引水した長大な都市用水路で、本流筋の一部は暗渠となり、この八幡地域周辺ではその流路を辿ることができます。

 その流れに沿って東へ進みますと、石造の橋が四ツ谷用水とは違う別の暗渠となった川に架かっていました。この橋は石切橋と呼ばれ、また暗渠となっている川は「へくり沢(巴谷)」と呼ばれる、仙台城下町の西側を深く刻む沢です。へくり沢についても、土橋通の稿などでご紹介していたと思います。石切橋は、この一帯が藩政期に石垣衆(石垣の施工にあたった足軽)の屋敷があったことに因み「石切町」という地名であったことに拠ります。現在でも数軒の石材店があって土地の歴史を今に伝えています。石切橋から南へ、国道48号へ至る道路沿いがおおよその石切町の範域であったようです。

春日神社

春日神社参道
(青葉区八幡二丁目、2011.5.21撮影)
春日神社

春日神社境内
(青葉区八幡二丁目、2011.5.21撮影)
四ツ谷用水

住宅地の背後を流れる四ツ谷用水
(青葉区八幡二丁目、2011.5.21撮影)
半子町

半子町の景観
(青葉区子平町、2011.5.21撮影)
半子町の藤

半子町の藤
(青葉区子平町、2011.5.21撮影)
半子町の藤

半子町の藤
(青葉区子平町、2011.5.21撮影)

 石切橋を過ぎて東北東へ、八幡二丁目地内を土橋通まで進む通りは覚性院丁(かくしょういんちょう)の通りとなります。これはこの町内に「覚性院」という寺院があったことに由来しています。伊達家以前仙台の地を治めてきた小大名(後に伊達家家臣となる)国分氏最後の領主国分盛重の嗣子が僧になり、二代藩主忠宗のときにかつて国分荘(おおよそ現在の仙台を中心とする宮城郡南部一帯)にあって荒廃していた寺院を再興したいと願い出たことにより覚性院建立の運びとなり、いくつかの変遷を経て現在地に遷座することとなったもののようです。明治のいわゆる廃仏毀釈により廃寺となっていますが、寺院のあった場所には国分氏の氏神として勧請された春日神社が残り、地域の信仰を集めています。

 土橋通りに出て北へ向かい、突き当たりを西へ向かう通りは、半子町(はんこまち)という名称で呼ばれていました。国見方面へ抜ける街道筋として重要な位置に当たるこの場所には、「半子衆」と呼ばれた旗本足軽を配したためそれが地名となりました。足軽の中から特に器量の優れたものを選抜し、その印に頭髪を半甲(半分剃って後ろを残すこと)にしたことに拠るのだそうです。町内には「半子町の藤(市指定天然記念物)」と呼ばれる大藤があり、この日はちょうど見頃を迎えていました。1593(文禄2)年に伊達政宗が朝鮮出兵から戻った際に持ち帰ったものを千田氏が拝領し植えたものとされているこの藤は、仙台の初夏を彩る風物詩として現在も愛される存在となっています。石切町や覚性院丁、半子町といった旧町名は住居表示実施により八幡二丁目や子平町(地内龍雲院に林子平の墓があることに因む命名)に再編されていますが、随所に往時に面影が残り、住宅地となった現在でものびやかに地域の生い立ちを伝えています。


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