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瀬戸内逍遥 I
西南日本における海の大動脈、瀬戸内。 古くから、大陸と日本とを結ぶ重要な海の道としての役割を担いながら、数々の歴史の舞台となりました。 また、豊かな風光と、穏やかに育まれた文化、海とともに歩んだ人々の脈動を感じさせる、母なるおおらかな海です。 そんな“瀬戸内世界”に向き合うプロローグとして、瀬戸内逍遥 I をまとめてみました。 |
遂に実現! 「落書き帳」メンバーとのコラボレート企画 日頃よりお世話になっております、グリグリさんのホームページ内「都道府県市区町村」にあります掲示板「落書き帳」のメンバー、なおさんにご寄稿いただいた文章を軸に、私の地域訪問記を追記したコラボレート企画としてこのページは作成します。なおさんには貴重なお写真、文章をお送りいただきまして、まことにありがとうございました。 |
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青字:なおさん執筆部分 黒字:YSK執筆部分
※写真で、撮影者名が無いものはYSKが撮影したものです。
1.“ひろしま”を通じて (2003.8.27)
私が、広島の平和記念資料館を最初訪れたのは、1994年8月のことでした(山陰の夏 I 参照)。 雑然と転がるコンクリートの塊。外壁が吹き飛んで、見事なまでに骨格だけが残る円筒形。そして、何よりも身震いを起こさせるその砂漠色に、とにかく、声が出なかった。目の奥が熱くなった。確かに、目を開けていられないくらいの熱さを感じた。真夏の熱気のもと、それはしっかりと広島の地に立ち、この街を見守っている。この街に息づくすべての平和への思いをがっしりと受け止め、無言のアッピールを送り出している。 (拙稿「山陰の夏 I 」より抜粋) 瀬戸内のおおらかな風土の中にあって、一際輝きを放つ町、広島。その礎として、1945年8月6日の、あの日があることを、実感した広島訪問であったと思います。なおさんにおかれましても、広島の希求する崇高な思想に思いをいたしながら、平和の尊さ、そして近代都市として燦然と存在する広島の町の趨勢を、十分に感じ取ったのではないでしょうか。 ※広島市につきましては、HIROSHIMA REVIEW のページでも、特集しています。ぜひ、ご覧ください。 2.雨の中の宮島
宮島でもっとも著名で、輝きを放っている建造物の1つ、厳島神社。大鳥居の迫力や、鹿のかわいらしさが伝わってくるような写真をいただきました。私も、1994年8月の広島訪問の後、宮島に行きました。そして、今年2003年、再訪を果たしたわけです(瀬戸内逍遥 II 参照)。 宮島町の中心部は、歴史的なムードに満ちた、懐かしい雰囲気の色濃い落ち着いた街並みの宝庫でした。土産物店が並ぶ表通りを歩いたのでは絶対に出会えない、瀬戸内の古い街並みは、見事という他ありません。厳島神社や大元神社を見た帰路に、千畳閣から見下ろした街並みのたおやかさに惹かれ実際に街中を歩いて見ましたが、そのあまりの奥ゆかしさに、路地を歩いていてとても晴れやかな気持ちになりました。 (拙稿「瀬戸内逍遥 II 」より抜粋) 宮島全体が、ゆたかな自然と、瀬戸内海の航海史、民俗史などのエッセンスを閉じ込めた、宝石箱なのだと思います。もし、次に宮島を訪れるときには、こういった島の雰囲気を存分に感じてくださいね。 3.瀬戸内の道・高松の街
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5.瀬戸内逍遥 I 瀬戸内に関心を寄せるようになったのは、そこが海の道として、たくさんの輝きにあふれていたためだったと思っている。沖縄で、島と島とを結ぶかけ橋の存在をインスパイアされ(1999年)、その視点は翌2000年夏の北海道の海へと受け継がれた。陸上交通全盛の時代、我々は海を介して人や物を運び、海とともに合った時を忘れていないだろうか。2001年から2002年へと続いた「西海道訪問記」も、常に海をテーマに置いていた。そして、海の道は瀬戸内に帰着したのである。古来より、畿内と西日本諸国とを結びつけた海、わが国と外国とをつないできた海、それが瀬戸内海であった。そんな数々の歴史と風土、自然に彩られた瀬戸内を見てみたい。2002年9月21日、広島市に入った私は、広島市周辺の周遊を終えた翌22日に、尾道へ移動、しまなみ海道を大三島まで行って往復する定期観光バスによって、瀬戸内を概観することにした。
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バスは、観光客を当てこんだようにこぎれいに整えられた尾道駅前を出発し、新尾道大橋によって最初の海峡を越えた。初めてこの海峡−尾道水道−を見たときは、「これが海なのか」と新鮮な驚きを覚えたのが懐かしく思い出される。バスはそのまましまなみ海道を降りずに、向島から因島へと軽快に走る。因島と生口島をつなぐ生口大橋からは、因島と生口島に挟まれた穏やかな海と、その海に接する集落の様子がたおやかに眺められた。 生口大橋を渡りきると、バスは一般道に入り、因島市から瀬戸田町への道を進んだ。沿線は瀬戸内らしいみかん畑のてかてかした樹冠が眩しく光り輝いていた。 バスは、さらに海を越え、越智水軍の範域、大三島へ。大三島には、古くから水軍の信仰を集めた古社、大山祗(おおやまつみ)神社を見学した。大山積神を祀るこの神社は、山のみならず海の祭神として広く崇められる、鎮守である。このことには、山の神を信仰していた南九州の海民が瀬戸内海地域に移動してきた可能性とにリンクさせる見方もあるようであるが、そのことの是非はともかくとして、我々日本人の祖が、山や海と密接にかかわりながら、日々の生業にいそしんできた足跡なのではないか、と考えておきたい。 以上、なおさんのご寄稿を合わせながら、瀬戸内世界を考えるというコンセプトのもと、諸地域をアラカルト的に概観してきました。もっと、瀬戸内海に注目してみたい。そう、強く思う。 JR呉線に乗車し、尾道へ向かう途中、家船と呼ばれる船で一生を過ごして漁労を行ってきた漂海民の根拠地である、能地(三原市)付近を通過した。穏やかな海を背に、サカキやシキビの枝を手に、彼岸の墓参りへ向かう人々に出会った。その光景が、しずかな瀬戸内海のようすとあいまって、瀬戸内世界の奥深さを物語っているように思えた。 |
(C)Nao&YSK(Y.Takada)2003 JAPAN |