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2019年8月末、四国を訪問しました。丸亀から塩飽諸島、そして“仁淀ブルー”きらめく四国山地の只中へ・・・。 時折雨の降る陽気の中の訪問となりましたが、多様な以前が織りなす山海の色彩に巡り会える彷徨となりました。 |
丸亀城 (丸亀市一番丁、2019.8.30撮影) |
仁淀川(名越屋沈下橋より) (高知県いの町、2019.8.31撮影) |
訪問者カウンタ ページ設置:2021年2月24日 |
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丸亀市街地を歩く 2019年8月30日、前日バスタ新宿を出発した夜行高速バスで到着した丸亀駅前は、本降りの雨が路面をたたいていました。高架駅の丸亀駅のコインロッカーに荷物を置き、駅前から続くアーケード商店街へと歩を進めました。東西の浜町商店街から南北方向の通町商店街へ。平日の午前9時前という時間かつ夏休み期間中というもあって、通勤通学の人の流れもほとんど無く、一日の活動が始まる前の静かな商店街を歩きました。古くは金毘羅さんへの参宮の玄関口の一つとして栄えた城下町の商店街は、港と丸亀城とを結ぶ形となっていたのが印象的でした。
通町のアーケードを抜け、かつて丸亀藩を治めた城主の名前を冠した京極通りを横断しますと、目の前に平山城である丸亀城が目に入ってきました。依然として雨が降り続く中、傘を差し丸亀城の堀端へ。標高66メートルの亀山の上に鎮座する天守は、壮麗な石垣の上に威風を示していまして、この城が「石垣の城」と形容されることをその結構によっていかんなく表現していました。堀に架けられた橋を渡り、枡形になっている大手門をくぐり城内へ。丸亀城の石垣は、亀山に三段の石垣を築き、それにより三の丸、二の丸、本丸が形成されていることに特徴があります。大手門から三の丸の石垣に沿って続く坂は「見返り坂」と呼ばれ、ここから見上げる三の丸の石垣は実に優美で、二の丸から本丸へと進む途上には櫓跡をはじめとして多彩な積み方の石垣があって、それらがしなやかな緑に覆われる風景は、丸亀城を名城たらしめている最大の要素となっているように見受けられました。江戸時代から残存する、いわゆる「現存12天守」のひとつである天守からは、眼下に広がる市街地を眺望することができた一方、この日は雨天であったために、瀬戸内海や讃岐富士(飯野山)などを見通す遠景は靄に隠れていました。 見返り坂を下り、豪奢な薬医門形式の玄関先御門をくぐって、城の西側へ徒歩を進めます。交通量の多い県道33号をしばらく南へ歩き、スーパーマーケットのある交差点を西へ入りますと、かつての金毘羅街道にあたる路地へと行き着きます。金刀比羅宮(金毘羅さん)への参詣道のうち、丸亀港から向かうこの道筋(丸亀街道)は最も栄えた通りであったといいます。現在では主要交通路から外れた、中小のビルや戸建ての家々が立ち並ぶ町の中を進む通りには、「中府の大鳥居」と呼ばれる鳥居がどっしりと建てられていました。丸亀から街道を辿り、金毘羅さんへは150丁の道のりで、道中には距離を刻んだ丁石や道標、灯籠や鳥居などが設置されました。この大鳥居には「天下泰平」や「海陸安穏」の文字が刻まれ、航海の神として篤い信仰を受けた金毘羅さんへの、往時の人々の憧憬を感じさせました。町屋造の建物も多く残る町並みを駅前へと戻り、駅の北側−丸亀港方面−へと進みました。
金毘羅参りが最盛期を迎えた江戸期以降、参詣者は海路で各地に上陸し、金毘羅さんを目指しました。丸亀街道は当然港まで続いています。雁木のある港に面して、江戸の参詣者の集まり(講)による寄進をもとに建設された「太助灯籠」と呼ばれる金灯籠があって、港のシンボルとなっています。灯籠の名になっている「太助」とは、最大の寄進者である塩原太助に因むものであるようで、これが地元・群馬県の郷土かるた「上毛かるた」の「ぬ」の札に読まれる人物であることを知って、どこか不思議なつながりを感じさせました。藩政期より地域の中心都市として成長した町の姿と、金比羅参りにまつわる多様な事物とを概観した散策は、沖に浮かぶ塩飽本島へと続きました。丸亀港フェリーターミナルを午前10時40分に出発するフェリーに乗り、塩飽諸島の主島である本島へと向かいました。 塩飽本島、塩飽水軍の本拠となった風景 丸亀を出航したフェリーからは、丸亀の市街地と、市街地を見下ろすように立つ丸亀城とをしっかりと望むことができます。港を出ますと、右手(東方)には瀬戸大橋が見えてきます。雨は小康状態となりわずかながら青空も見えるようになってきていたものの依然として曇天が全空の大半を覆っていまして、遠方の島影はにじみ、海はセピア色に沈んでいました。塩飽諸島は岡山県と香川県の間、瀬戸大橋が通過する与島などより西側に点在する大小28ほどの島々です。戦国期よりその名を馳せた「塩飽水軍」の本拠として知られます。藩政期以降も幕府より安堵を受けた人名制度と呼ばれる独自の自治権を持ちました。明治以降は船大工の技術を基礎とした塩飽大工の存在など一定の存在感をみせますが、戦後は徐々に衰微し、現在は漁業を中心とした過疎地域となっています。フェリーは約40で、塩飽諸島の主島である本島(ほんじま)へと到着しました。
本島は面積6.74平方キロメートル、周囲約16キロメートルほどの島で、塩飽諸島の中では広島に次ぎ2番目の面積ですが、最も多い人口を擁しています。しかしながら、人口は2010(平成22)年国勢調査では492人であったものが、2021年1月末では280人となっていまして(市HPより)、この10年でほぼ半減している状況となっています。夏休み終盤の平日の瀬戸内の島を歩き始めました。雨はすっかり上がって、薄曇りの空の下、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受ける、島東岸の笠島地区へと歩を進めます。島を一周する県道に出るまでの海側に、養殖池のような水たまりが見えていました。それはかつて塩田として利用していた場所を養殖池として転用したものなのではないかと想像しました。 県道といっても道幅は5メートル前後の路地に近い規模の道筋で、そんな島ののどかなメインストリートを進んでいきます。島のは人影も少なく、やがて見えてきた本島中学校の校舎も、現在では小中併設として供されているようでした。小さな鳥居のある路地を挟んで、中学校の隣には「塩飽勤番所」の遺構が残ります。江戸時代、塩飽諸島はどの藩領にも属さず、海上輸送などの御用を担う人名を、その中から選ばれた年寄が束ねる独自の自治が行われました。その政務が行われた場所がこの塩飽勤番所です。1860(万延元)年に改築された現在の建物は近代以降も行政機関として存続し、1972(昭和47)年度まで市支所として使用されました。
やがて瀬戸大橋を望む東海岸に出ますと、道は磯と海に迫る山裾の間を穿つような狭隘路へと移り変わります。笠島地区は、東西を海に突き出した岬状の山に囲まれた、北に開ける狭い平地に家並みを広げる集落です。江戸時代後期から昭和にかけてつくられた建物は、町屋造のものも多く残されて、建築当時の意匠をよく残しています。集落内を路地は網の目状に張り巡らせて、見通しを聞きにくくするなどの特徴が認められます。そうした歴史的な特質が評価されて、前述のように、この地区は1985(昭和60)年に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。近年になって整備されたと思われる漁港部分を除けば、町並みは昔ながらの雰囲気を濃厚に感じさせるもので、表面を意図的に焦がして耐久性を向上させる「焼板」や漆喰を塗り固めたなまこ壁などが多用される風景は、瀬戸内が海上交通の要として大いに繁栄した歴史を如実に感じさせるものでした。 集落の中程を南北に貫通する「東小路(とうしょうじ)」と、東西に弓なりに走る「マッチョ通り」が交差する一帯には、特に美しい外観の建物が集まっていまして、一般公開されている笠島まち並保存センター(旧真木邸)では、往時の民具や建物内部を見学することができ、かつての島の暮らしの一端に触れることができます。石積みで巧みに区画された小路を歩きながら、古い家々の間を進みますと、尾上神社の境内に行き着きました。その拝殿は、1916(大正5)年に当時の塩飽補習工業学校の生徒が完成させたもので、塩飽大工の技術の一端を知ることができる貴重な遺構となっています。神社の境内からハイキングコースを上った先にある遠見山展望台からは、瀬戸大橋を乗せる瀬戸内海の島々をしなやかに見通すことができました。
集落の中心部に戻り、東小路を南へ峠道を経て島の泊地区へと戻る旧道へと進みました。専称寺を経て切通状になっている道の傍らに、位牌型の人名墓が建立されていました。年寄を務めた吉田彦右衛門の墓で、塩飽勤番所跡とともに国の史跡の指定を受けています。こうした特徴的な人名墓は島の各所に認められまして、それらは藩政期においては例外的な統治機構を有した地域の姿を今に伝えています。中学校前に出て港方面へ戻り、現在の支所前を通過し、泊地区の産土神で、地域の崇敬を集める木烏神社へ。日本武尊が瀬戸内海巡行中に水先案内を務めた烏が泊の島に飛び帰ったことからここに祠を祀ったとの伝承が残ります。境内には千歳座(1862(文久2)年建築)や特徴ある笠木が印象的な石鳥居(1627(寛永4)年奉納)などが残り、塩飽衆の映画を彷彿とさせていました。 港へ戻る頃までには曇りベースながらもだんだんと天候も回復に向かっているようで、四国本土、丸亀市街地とその背後の讃岐富士(飯野山)円錐状の山々や、近景の牛島の島影も望むことができました。帰路は経路上牛島へも立ち寄る客船の利用です。こちらの所要時間は20分で、時折薄日が射した時、マリンブルーに瞬時にきらめく瀬戸内海の風景を船内より眺めていました。塩飽諸島のある海域は特に潮流が早く複雑で、「潮が湧く」ようであることからとも、製塩が古代より盛んで「藻塩焼く」からとも言われる塩飽諸島の名前は生まれたとも言われます。人口減少に直面する往時の水軍の本拠は、静かな海辺と山並みを静かに湛えて、かつての賑わいに溢れた島の姿を懐かしんでいるのかもしれないと感じました。1688(貞享5)年、丸亀藩二代目藩主京極高豊により「中津別館」として築庭されたことに始まる中津万象園の美しい庭園を鑑賞した後、予讃線で詫間駅へ、そこからコミュニティバスに乗り換えて、瀬戸内海の夕景が美しい父母ヶ浜(ちちぶがはま)へ向かいました。潮が引く遠浅の浜辺に残る水辺に夕照の赤燈色の空が反射する風景は、どこまでも幻想的で、この海域の景観の多様性を実感させました。 |
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後半へつづく |