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出雲・石見めぐり
〜島根県内の諸都市を訪ねる〜
2014年10月11日から12日にかけて島根県下の諸地域を訪れました。島根県の本土部分は東部の出雲地域と西部の石見地域からなります。 古来より神話の舞台として栄え、製鉄技術や北前船交易で栄えた地域に存立してきた歴史を、諸都市を巡って接した多様な地域の姿をとおして感じることができました。 |
松江城天守 (松江市殿町、2014.10.11撮影) |
医光寺・雪舟庭園 (益田市染羽町、2014.10.12撮影) |
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「水の都」松江を歩く 〜近世以来の城下町を映す街並み〜 2014年10月11日、前夜東京を出発し高速バスで到着した岡山駅は、半年前のゴールデンウイークに訪れた尾道駅前とは打って変わって、秋晴れの爽やかな空の下にありました。ここから特急「やくも」に乗り換えて中国山地に分け入り、山陰地方へ。車窓には中国山地のたおやかな山並みや、米子平野における豊かな穀倉地帯を確認することができ、大山の山容もくっきりと遠望できました。最初の訪問地・安来市は島根県東端のまちです。古来より記紀や風土記にその名が見える歴史の町であるとともに、中国山地で興隆したいわゆる「たたら製鉄」を背景とした製鉄産業は現在でも市の基幹産業の一つです。JR安来駅のすぐ南に隣接して日立金属の工場が立地しています。製鉄と交易で栄えた安来港周辺を概観しながら、随一の庭園美と豊富なコレクションで知られる足立美術館を見学、昼過ぎに県と松江市へと移動しました。山陰地方は何度か訪れておりますが、松江の町を歩くのは学生時代以来です。都市の顔としてホテルや商業施設が集積するJR松江駅を出発、松江の街歩きをスタートさせました。
松江は島根県の県庁所在都市であるとともに鳥取・島根両県を範囲とするいわゆる山陰地方の中核都市としても機能するまちです。同様の中枢管理機能は隣接する鳥取県米子市にもある程度集積していまして、両市を挟む位置にある中海や、西側の宍道湖を取り囲む一帯をカバーする「中海・宍道湖経済圏」が形成されています。松江駅前から続く道路を北へ歩きますと、程なくして大橋川の右岸へと到達します。宍道湖と中海を結んで流れる大橋川は水を豊富に湛えていまして、川というよりは小規模な海峡のように目に映ります。実際、宍道湖から大橋川を経て中海に至る地域にはあまり高低差が無いようで、外界と通じる境水道を介して潮汐の影響を受けることから、中海と宍道湖は淡水と海水とが入り混じる汽水湖となっています。松江市街地はこの大橋川の両側に展開し、伝統的に川の北側を「橋北」、南側を「橋南」と呼ぶ地域区分が供されているようです。町を大きく分ける大橋川や、橋北の市街地に現在でも存在している松江城の堀川が醸し出す美しい町並みは、松江を「水の都」と呼ばしめています。 大正期までは橋北と橋南を結ぶ唯一の架橋であったという松江大橋を渡り、松江城化を反映した市街地へと歩を進めます。橋は欄干に擬宝珠があって、伝統ある橋の風情を印象づけます。橋の西側は宍道湖大橋を介して宍道湖が間近に迫り、透きとおるような秋空の下鏡のようにきらめく宍道湖の湖面が瞬いていました。大橋川の左岸は、城下町時代より町人地として栄えた町場です。東西に連なる京店(きょうみせ)商店街は石畳の街路が落ち着いた雰囲気で、旧城下町の商業中心としての風情を感じさせます。程なくして松江城の外堀として開削された京橋川に至ります。川の周辺には石造りの京橋をはじめ、蔵造りの建物や、旧日本銀行松江支店を観光施設としてリノベーションした「カラコロ工房」などが立ち並んでいまして、近世来受け継がれてきた美しい町並みがのびやかな光芒を放っていました。
京橋から北へ続く商店街を進み、県民会館や県庁が立地する県政の中枢となる地区を一瞥しながら、松江城の内堀端まで出ます。内堀と城側に屹立する石垣の姿は、復元された櫓が城内の木々に囲まれながら穏やかに立ち上がっていまして、城下町としての往時を映す美しい美観を街に与えていました。京橋川の北側は武家地であり、県庁の敷地と西接する県立図書館や県立武道館のある一角が松江城の三の丸にあたるようです。東西に町を貫く大手前通りの西端がいわゆる大手前で、松江城のメインエントランスとなります。大手木戸門跡から大手門跡へと進み、二の丸下ノ段へ。この空間は藩政期には米蔵が立ち並んでいました。ここから石段で三の門跡を上り、二の門跡、一の門跡と順に進み、本丸に現存する天守へと歩を進めました。全国に12か所ある現存天守の1つで、築城は1611(慶長16)年。明治に入り城内の多くの建造物は棄却されたものの、天守だけは地元の豪農や旧藩士の尽力により保存されました。2015(平成27)年7月には国宝指定を受けています。黒を基調とした優美な天守は、雲ひとつない秋空の下、凛としたたたずまいを見せていました。 天守からは宍道湖のほとりに展開する松江市街地をたおやかに眺望することができました。松江城は亀田山と呼ばれる小丘の上に建造されています。北側の松江北高校のある微高地とは、宇賀山と呼ばれる高まりを介した、もともとひとつながりの丘陵地であったようで、内堀を掘削する際に発生した土砂は、元来湿地帯であった城下町(現在の市街地一円)の埋め立てに利用されたようです。北側に連なる島根半島の脊梁と、南の中国山地へと続く山並み挟まれた低地帯は、山陰地方では最大級で、地図で確認してもその特徴的な地形が目を引きます。大陸に向かう地勢からも、この地域を中心とした古代出雲国が、強大な勢力であったことも頷けます。この場所から市街地を眺めるのは1994年の真夏以来でしたが、灼熱の日射しを万華鏡のように拡散させていた宍道湖の湖面は、錦秋の晴天の下、街並みや稜線に寄り添うような滑らかさを呈しているように、この日は感じられました。
松江城の北側には、塩見縄手と呼ばれる通りが内堀に並行して続いています。通りに面して武家屋敷や小泉八雲旧居などが面していまして、城下における武家地の景観を今に伝えるその風向から、「日本の道100選」にも名を連ねています。塩見縄手の美しい風景を概観しながら、北側の赤山にある茶室「明々庵」へ。茶人大名として知られる松江藩七代藩主松平不昧公の趣向により1779(安永8)年に建設されました。茅葺の屋根を持つ質朴なたたずまいの茶室からは、塩見縄手の家並を介して、緑に囲まれた松江城天守を見通すことができます。その眺めはまさに大きな庭園を観賞するような風情で、徐々に西へ傾くやわらかな日光も相まって、、瑞々しい感傷を呼び起こさせました。明々庵は最初は城下の殿町に所在する家老宅の敷地に造られましたが、東京都内や松江市内の有澤山荘近くなどへ移築を繰り返し、1966(昭和41)年に現在地へ落ち着くという来歴を持ちます。そうした流浪の軌跡は、茶の道に生きた不昧公の結晶であるこの庵が多くの人々を惹きつけて止まなかったことの証左であったともいえるのでしょうか。 明々庵での小休止の後は、塩見縄手から内堀の風景を目に焼き付けながら散策し、バスを併用しながら城の西側に堂宇を構える月照寺(松江藩主松平家の菩提寺)を拝観しながら宍道湖畔へ出て、随一の美景を誇る宍道湖に沈む夕日ににその身を包ませました。宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島を間近に望むことができる「宍道湖夕日スポット」にバスで移動しながら、夕焼けから夕闇、藍色から漆黒へと鮮やかに表情を変える残照をしばし刮目しました。
安来市から松江へ至り、小京都とも形容される慎ましやかな景観の数々に浸ることができ、山陰という地域の奥深さを実感する一日を終え、JR松江駅から特急「スーパーまつかぜ」を利用し、島根県西部の益田市へと向かいました。車窓の向こうに広がる夜の風景は、海と山と市街地を交互に目線に滲ませながら、新たな地域への出会いへの期待を喚起させているようでした。 |
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「石見地域の諸都市をめぐる」へ続く |
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