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出雲・石見めぐり
〜島根県内の諸都市を訪ねる〜
石見地域の諸都市をめぐる 〜個性的な小都市群を訪ねる〜 2014年10月12日は、前夜に松江より移動し投宿していた島根県西部の益田市街地を歩く活動により一日が始まりました。益田市は島根県の西端にある人口約4万7千人の町で、山口県に接する交通の要衝です。宿泊したホテルはJR益田駅の駅前にあり、部屋からは再開発ビルが建設されて町の玄関口として整えられた駅周辺の様子を見下ろすことができました。
益田市のある島根県の西部は、旧令制国では石見(いわみ)国にあたります。現在でも地域名称として「石見地方」などが使用されていますし、2007(平成19)年に世界遺産に登録された石見銀山にもその名が見て取れます。石見地方は概して山地や丘陵が多く平地に乏しい地勢から、河川が日本海に流出する低地ごとにその流域を後背地とする都市が発達し、沿岸部にはほぼ同規模の都市が並んでいます。益田川と高津川がつくる沖積地に発達した益田市街地は、藤原鎌足を始祖とするともいわれる藤原国兼が平安後期に国司として下向し、やがて益田氏を名乗り交通の要衝として優れた益田を拠点とし築かれた中世の城下町を基礎としています。江戸時代には藩政の所在地とはならず、地域の中心都市(在郷町)として過ごしました。市街地の再興と目的として2005年に完成した芸術文化施設「島根県芸術文化センター グラントワ」を一瞥しながら、中世以来の旧市街地が残る益田川右岸の本町周辺へと向かいました。 県道54号沿いの旧市街地の街並みは、短冊状の地割に商家が立ち並んでいた土地割りを今に伝えながらも、人口減少や新市街地の成長に起因すると思われる衰微の状況も一定程度感じざるを得ない状況でした。しかしながら、中世から近世初頭にかけておよそ400年もの間ここに拠点を置き石見地域を支配した城下町の名残は随所に残されています。暁音寺門前に保存されている鍵曲がり跡は、防御目的または同寺の境内地を迂回する目的で設けられた道路のクランク(鍵曲がり)を歩道部分に形態保存したものです。東へ進みますと、益田氏の居城であった七尾城址へと至ります。同城は七尾山全体に遺構が広がり、山麓には内堀が現存しています。中腹に鎮座する住吉神社の参道に建てられた鳥居越しに、中世来の街並みを今へ残す市街地の様子を穏やかに見通しました。
「七尾城通り」と呼ばれている暁音寺前の通りを戻り、益田川を渡って、三宅御土居跡へ。益田氏の居館跡である御土居跡は、現在「おどい広場」が整備されて、居館跡の規模や発掘調査の概要などを知ることができます。益田氏は主君であった毛利氏が関ケ原の合戦で敗戦後は長州の須佐(現在の萩市須佐)へと移った後はその役割を終え、その跡地には江戸時代初めに益田氏の家臣が泉光寺を建立し、その面影をとどめていました(同寺は現在は移転しています)。 再び川を渡り旧市街地に入り、三度川を越えて医光寺へ。総門は七尾城の大手門として造られたもので、後に当院に移築されたものです。益田の歴史と語る上で欠かせないもう一人の人物が禅僧、そして画僧として知られる雪舟です。雪舟は晩年を益田で過ごしており、その作庭とされる庭園が医光寺のほか、萬福寺に残されています。重要文化財指定を受ける建物も散見されまして、中世以来輝きをはなった益田市街地の奥深さに触れることができました。近隣にある津和野や萩が「小京都」として多くの人々の憧憬を呼んでいますが、室町期以来の古い城下町を投影する益田の町も、こうした町以上に貴重な風景に出会える場所であるのかもしれません。
益田川に沿って穏やかな街並みが広がる様子を概観しながらJR益田駅へ戻り、隣の浜田駅まで特急電車で向かいました。沿線人口が多くないローカル線では、普通列車の需要が相対的に少なく、日中の時間帯は遠方の大都市へ向かう速達列車ばかりが運転されることが珍しくなくなって久しいですが、山陰本線もそのような傾向にあるようでした(さらに過疎化が進むと特急列車が淘汰され一気に本数が減少していきます)。JR浜田駅前には銀天街(どんちっちタウン)が設けられていまして、この町の大きさを窺い知ることができました。浜田市は人口およそ5万7千人で、石見地方では最大の規模を持ちます。石見地方の中心都市として出先機関なども一定程度集積しているほか、中国自動車道から分岐する浜田自動車道も通じていまして、地域の中心都市としての中枢性も備わっています。石見地方の中央部という意味の「石央文化ホール」の前を通り、浜田川の下流方向の旧市街地へ。国道9号の田町交差点から西へ、殿町、城山交差点にかけてには、市役所をはじめ、税務署や裁判所、金融機関の支店などが集まって、中枢管理機能が集積するエリアを構成しています。城山交差点の西、切通しで丘陵を抜ける国道の脇から、浜田城跡である丘陵へと歩を進めます。 浜田城は標高68メートルほどの丘陵上に建設された平山城です。城は浜田川によって南と西を画され、北は天然の良港として北前船交易の拠点となった外ノ浦の湊があって、海上交通の要衝を押さえた立地であることが分かります。城下町は唯一地続きとなる東側に配された内堀(現存せず、城山交差点から北へ延長したあたりに存在した)の東に武家地が割り出され、松原湾に面した外ノ浦や、大橋を渡った浜田川左岸など町人地が展開する構成であったようです。廻船による交易の衰退や鉄道の開通により町の重心は現代の浜田駅前に向かってシフトし、駅前から旧市街地にかけて帯状に続く現代の中心市街地が完成した歴史が垣間見えます。城跡には浜田県庁の門として、明治3年(1870年頃)に津和野城より移築された門がこの場所に再置された遺構が残るほかは、石垣や曲輪を除けば往時の城の建造物は何一つ残されていません。城山公園として市民の憩いの場所となっている今は、眼下に外ノ浦の家並や浜田漁港をたおやかな緑の森を介して望むことができました。城山公園は飛鳥時代の歌人柿本人麻呂の終焉地「鴨山」に比定する説もあって、古来より石見の中心地であった浜田の歴史を漂わせる風雅も感じさせます。
城山公園の散策を終えた後は、浜田漁港周辺の風景を確認した後浜田駅方面へと取って返し、城下町南端の寺院が立ち並ぶ住宅地を辿りながら大橋を渡って、国道9号に戻り、北口から浜田駅へと至りました。駅の北側には貨物ホーム跡地を再開発し建設された国立病院機構浜田医療センターの建物があって、物流の質的変化を象徴していました。益田・浜田両市とも、平成の大合併によってその市域に生活圏を同じくしていた山間部の町村部を取り込んでいまして、そうしたローカルな商業中心としてその基盤を保持する現況にあります。町を歩いている印象では他の地域における一般的な小都市の姿と比較して大きな差は感じられませんでしたが、今後の人口減少によってはやがて少なくない影響も生じてくるのかもしれません。人口規模に比してどこか立派に感じられる公共施設に接して、また産業構造の変化による地方経済の変容を思いながら、複雑な気持ちにもなる訪問となりました。そして、中世から近世にかけて、地域の資産を生かしながら他地域との交流によりいきいきと存立した地域の歴史に思いを馳せました。 |
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「再び出雲へ」へ続く |
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