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#6 男鹿半島をめぐる 〜大地の脈動を感じる風景〜 2015年5月5日、秋田県男鹿半島へと遠征しました。男鹿半島は日本海沿岸にあって、津軽半島から能登半島にかけてのエリアで唯一、海に向かって突起する半島を構成しています。半島のほぼ中央に寒風山が聳え、西側にも男鹿三山と呼ばれる山塊があり、その山容は秋田県北部の沿岸ではきれいに見通すことができます。男鹿半島は元来日本海に浮かぶ島で、北と南双方から砂州が伸びて連結した陸繋島です。
男鹿半島の付け根には、かつて琵琶湖に次ぐ全国で2番目の面積を誇った八郎潟があります。1957(昭和32)年より開始された干拓事業により大部分が耕地へと変わりましたが、南側には調整池が残り、そこから船越水道が流出しています(水門が設けられ湖水自体は淡水化されています)。その船越水道を渡る男鹿大橋の手前には有名な伝統行事「なまはげ」の巨大な像が設置されていまして、男鹿を訪れる人々を歓迎していました。酷道をそのまま進み、脇本地区で国道を逸れて、男鹿のシンボル寒風山へと向かいました。 寒風山は標高355メートルの成層火山で、山頂付近には大小の噴火口があり、かつての火山活動の痕跡を認めることができます。山肌は芝生で覆われており、頂からは360度のパノラマを目にすることができます。現在は大潟村となっている八郎潟干拓地から右へ視線を移していくと、八郎潟調整池と、弓なりに続いていく日本海の海岸線がくっきりと目に入ってきます。この日は地平線近くに雲が多く見通すことができませんでしたが、彼方には鳥海山の山容も眺望できることが、展望台に設置された説明板には描かれていました。さらに視界を西へとずらしていきますと、男鹿半島一帯を市域とする男鹿市の中心市街地である船川港地区から男鹿三山、入道崎方面を経て、北側の日本海岸の風景を一瞥しながら再び大潟村方面へと一周しました。眼下の干拓地やその周辺の平地は一面の水田地帯で、田植えに向けて徐々に水が引き入れられている様子を俯瞰することができました。
寒風山訪問の後は、男鹿半島の北側を進む県道に出て、入道崎へ。日本海に相対する岬はごつごつした岩礁の上には、北緯40度線上にあるという入道崎灯台が、その白と黒の灯身を見せていました。岬一帯は海岸段丘面が発達していまして、その平坦面上は草原となっています。樹木のないその風景に、厳冬期における荒天を想像させました。入道崎の南には、一ノ目潟、二ノ目潟、三ノ目潟と呼ばれる火口湖群があり、火山活動が盛んであった男鹿半島の地史を刻んでいます。マグマ水蒸気爆発により生じたこの地形は「マール」と呼ばれます。西に接する戸賀湾も噴火活動の後で、こちらは「タフリング」と分類される地形に海水が浸入したものであるとされています。一ノ目潟と二ノ目潟の間には八望台(はちぼうだい)があります。ここからは二ノ目潟を介して戸賀湾や、森の中にわずかに除く一ノ目潟の湖面などを望むことができました。 男鹿半島西岸の特色ある景観を確認した後は船川港周辺地区へと進みます。その道すがら、国の重要文化財指定を受ける赤神神社五社堂へ立ち寄りました。鬼が一夜にして積んだという伝説のある石積みの参道を上っていきますと、新緑の木々がきらめく向こうに、その名のとおり5つの社殿が横一列に立ち並んでいました。赤神とは漢の武帝であるとされ、なまはげは武帝が伴った鬼であるという言い伝えがあります。現在の社殿は1710(宝永7)年の建立。参道の傍らには姿見の井戸や徐福塚など歴史ロマンの色濃い事物も存在していまして、この地の遙かなる文化史を感じさせました。
最後に、船川港を望む高台にある大龍寺へ。日本庭園を取り込んだ境内には鐘楼を兼ねた多宝塔があり、その海上からは、寒風山のたおやかな山並みや眼下の町並み、日本海の透き通るような水面が、とても清々しく見晴らすことができました。早春から初夏へ、徐々に熱量を増していく只中の男鹿半島は萌え立つ生命と、大地との躍動とを存分にまとわせたような輝きに満ちていました。 |
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