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#7 秋田県南部内陸の都市群 〜横手と湯沢概観〜 2015年5月5日、男鹿半島の周遊後は秋田県内を南下し、秋田県内第二の都市である横手市へと車を走らせました。横手市街地は横手盆地の中央やや南寄り、秋田県内第一の大河・雄物川支流の横手川が奥羽山脈から盆地へ出る一帯に発達しています。最初に訪れたのは、戦国期から藩政期を超えて地域を統括する政庁が置かれてきた横手城址に整えられた横手公園です。公園内には天守閣を模した展望台が建っています。その展望台からは、秋田県内最大の穀倉地帯を形成する横手盆地を望む横手市街地の風景をたおやかに俯瞰することができました。
横手市は前述のように戦国期以降横手城を中心とした城下町を基盤として町場を形成した来歴を持ちます。江戸時代は現在の秋田市に拠点を持つ久保田藩の範域となりましたが、一国一城令による廃城を免れ、ひとつの藩内における支庁的な位置づけで城下町としての面目を保ち、地域を代表する都市としての中心性を維持してきました。現代においても、冬季における「かまくら」や、焼きそばといった文化が全国的に注目される存在となっています。公園からは秋田県南の山並みを象徴する鳥海山の山体をうっすらとながら眺めることができました。 横手公園を訪れた後は、JR横手駅のある中心市街地の一角にある市役所に車を止めて、旧羽州街道の道筋を踏襲する県道272号沿いを北へ、横手川を越えて本町方面へと歩を進めて市街地の様子を概観しました。本町一帯は多くの地方都市の例に漏れず市街地としての都市密度は失われて久しい印象でしたが、随所に往時の繁栄を思わせる建物が散見されまして、今も昔も変わらない地域の中心としての姿を垣間見ることができました。県道の道筋は旧来ながらの都市構造を反映し狭隘であるためか、すぐ西側により広復員のバイパスがまさに整えられようとしていました。現代の横手市街地は広域交通の中枢たるJR横手駅を中心に再編成されているように感じられますが、一方においてかつてのメインルートであった旧羽州街道沿いの町並みも都市軸の一端を担っていまして、藩政期以降の変遷を重層的に町並みに写した風景を感じ取ることができました。本町付近を一通り確認した後は、横手川沿いを散策しながら右岸の美しい風景を目に焼き付けながら市役所へと戻りました。藩政期、横手川右岸は左岸が町人地であったのは対照的に武家地であったといいます。羽黒町から上内町にかけてのエリアには、旧武家町としての景観も残るといいます。
横手市を歩いた次は、秋田県内陸南部の都市・湯沢へと足を伸ばしました。秋田県内陸に広大な平地を現出させている横手盆地の最南端、鉦打沢川(かねうちさわかわ)が平地に出る扇頂部に市街地を発達させる湯沢市街地は、横手市街地と同様、戦国期に建設された城柵とその城下町をその基礎としていますが、藩政期以降は城郭としては廃されました。江戸時代以降は雄勝郡域を後背地とする在郷町としてその中心性を確立してきました。湯沢市役所に到達したときは既に午後6時30分を迎え夕闇の迫る時間帯でしたので、中心市街地を軸とした町並みを大まかに跡づけるだけの訪問となりました。 湯沢市役所の南の高台に、湯沢城址があります。その麓には「力水」と呼ばれる湧水があり、現在でも多くの人々に愛飲される名水として親しまれています。湯沢市街地はアーケードが整えられた柳町から大町にかけての中心市街地はを歩きながら、地域の小中心としての一定の中心性を十分に感じさせます。市街地には旧雄勝郡会議事堂の洋風建物もあって、湯沢の町場としての歴史が長いことを象徴していました。古い建物も残る市街地を南へ歩き、羽州街道沿いに現存する愛宕町の一里塚まで進んで到達した頃には陽はとっぷりと暮れていました。山裾の内町地区には、江戸時代、城郭の棄却後も地域支配の小拠点として武家が集住した武家地としての面影を残すエリアが残されていたのが印象的でした。
夕刻までの短い時間で駆け足のように進んだ横手と湯沢の町並みは、地方における中小の中心都市が秋田県という地方区分のスケールで中心性を保持しながら、今日までつないできた歴史を十分に感じさせる景観を持っていたように感じさせました。今度訪れるときには、その史実を念頭に置いて、確認することができればよいと心から思います。 |
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