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#9 山形県金山の町並み 〜森に抱かれた盆地のまち〜 2015年10月17日、晩秋の山形を訪れました。この日の山形県内陸は非常に深い霧に包まれていまして、奥羽山脈を越えて山形盆地に入った後、村山地方から最上地方へ、東北中央自動車道を北上する間もその濃霧はずっとフロントグラスの前に纏わりついていました。午前8時30分過ぎになってようやく霧が少しずつ晴れてきまして、ガスの間から穏やかな秋空が覗き始めました。
山形県内陸は大小の盆地によって地域が分かれており、北の新庄盆地を中心とした最上地方、中央部の山形盆地などをまとめた村山地方、そして南部の米沢盆地を範域とする置賜(おきたま)地方の3つに区分することが一般的です(沿岸は「庄内地方」と呼ばれます)。今回はこれらのうち最上地方の諸地域をたどりながら、秋が深まりつつある東北の風景を巡ることにしていました。最初の訪問地は最上地方北部、羽州街道の宿場町として町場を形成した金山(かねやま)でした。町役場に隣接した駐車場に車を止め、まだうっすらと霧が立ちこめる早朝の町並みを歩き出しました。 10月も下旬にさしかかりつつある時期は、気温もかなり下がっていまして、朝露に濡れる公園の木々は凛とした佇まいを見せていました。町の旧市街地は役場の西側に面する「七日町通り」と、それと役場の北で直交する「十日町通り」の2つの通りに沿って展開しています。建物は切妻・白壁で、妻側に庇を出して、軒が連なっています。地元の木材を使用し在来工法で建てられた居宅は「金山型住宅」と呼ばれ、慎ましやかな町並みを演出しています。十日町通りと七日町通の交差点を東へ進みますと、「金山大堰」と呼ばれる用水路があります。金山が戦国期の城柵として存立した時代には既に農業用水として開かれていたこの流れは、今日もなお清冽な水を受け入れていて、周囲の景観に潤いを与えていました。
明治初期の日本を訪れて「日本奥地紀行」を著したイギリスの作家イザベラ・バードの記念碑を一瞥しながら、金山小学校周辺の「内町地区」と呼ばれるエリアへと進みました。宝円寺の門前へと続く通りは「古城前通り」と呼び習わされているようでした。小学校の校庭の一角には「歴史の門」の表示板が掲げられた古い門があります。これは楯山に築城されていた金山城の裏門を移築したものです。正確には、城の破却後宝円寺の山門として使用されていたものを、1993(平成5)年に門を新築することとなるにあたり、旧山門を現在地に移転させたもののようです。その簡素な造りの山門は、のびやかな光景に彩られていました。 内町地区を歩いた後は、大堰の場所まで戻り、金山八幡神社やその前に整えられた交流広場、十日町通り沿いの旧金山郵便局の洋風建築(交流サロンぽすと)と回って、小盆地の中心に栄えた歴史ある町並みを散策しました。蔵造りの建物も多くあって、それらのうちのひとつは、文化活動拠点「蔵史館(くらしかん)」として供されていました。金山の町は、こうした昔からの家並みをさまざまなアイデアで修景・活用しているようで、今と昔を巧みにつなぐまちづくりは衆目を集めるところとなっているようでした。めがね堰の流れを確認し、金山川に架けられた木橋・「きごころ橋」へ。金山杉をふんだんに使用した屋根付きの橋は周囲の山並みと金山の市街地景観に溶け込むように、眼下のゆるやかな流れを跨いでいました。
金山の町を後にして国道13号を南へ戻り、新庄盆地と金山のある盆地とを分ける上台(うわだい)峠で小休止し、金山の田園風景を眺望しました。羽州街道もこの峠を越えていまして、現在は国道はバイパスを抜けており旧道は静寂の中、往時を偲ばせていました。すっかり刈り入れの終わった水田は冬枯れそして雪に覆われる季節を静かに待っているようでした。いまだ霧を巻き付けた山々はみずみずしく滲んで、ゆっくりとクリアな秋空にその身を委ねようとしていました。 |
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