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#15 横手市増田町を歩く 〜内蔵のある町並みをめぐる〜 2017年10月8日、地元を未明に出発し東北道をひたすら北進し、午前9時前に到着した秋田県横手市増田町は、朝から穏やかな晴天の下にありました。収穫目前の水田の稲穂も黄金色に輝いて、極上の秋の風景を演出していました。市役所増田庁舎に自家用車を止めて、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受ける町並みを散策しました。
増田庁舎を出て国道342号沿いを東へ進み、四ッ谷角交差点で直交する「中七日町通り」が、増田における伝統的なメインストリートです。この通りに面して、近代以降に立てられた妻入りの商家が多く立ち並んでいます。交差点に面して建つ「町並み案内所ほたる」は、大きい松の木が印象的な、町並みの玄関口となる観光拠点施設です。かつて医院を営んでいた町屋の内蔵(うちぐら)をベースに整えられた施設であるようでした。増田の町並みを語る上で、この内蔵は欠かせない存在です。増田の町の土地割りは、間口が狭く奥行きの長い短冊状の区画をなしているのが特徴で、その細長い土地の道路に面して妻入切妻造の主屋が立ち、その背後に土蔵を建てて、その土蔵を「鞘」と呼ばれる上屋建物で覆っています。つまり、一つの蔵がそのまま建物で包まれていまして、この蔵を「内蔵」と呼んでいます。内蔵のさらに奥には資材を収納する外蔵が建てられていることが多いのも特質として挙げられているようです。 案内嬢の前の中七日町通りを進み、最初の角を西へ入りますと、増田小学校の校地の外周へと続いていきます。小学校の校地は小規模な土塁で囲まれていまして、ここが中世における城柵の跡であることを今に伝えています。その土塁上、小学校北側には、ここに築城した小笠原義冬が1363(貞治2)年、愛娘と牛を人柱として生き埋めにし、その霊を慰めるために植えたと伝えられる二本杉(一本は落雷で炎上)が現存しています。この城は江戸時代初期には棄却されますが、増田は奥州街道からは外れるものの、手倉街道と小安街道が交わる交通の要衝として栄え、地域の在郷町として中心性を維持しました。現在の北都銀行の前身となる銀行が創業するなど、明治期以降もその興隆は続きました。現在目にすることのできる内蔵のある町屋は、そうした歴史を今に伝えています。
四ッ谷角交差点南に位置する月山神社を訪れてから、国道を北へ横断し、増田の町並みをめぐりました。通りに面して、質実ながら豪奢な雰囲気も感じさせる町屋の景観が連続して、雪国ならではの内蔵を内包した建物の作り出す景観を探勝します。町並みの中程には、下夕堰と呼ばれる用水路が引き入れられていまして、歴史ある町並みに穏やかなアクセントを与えていました。この水路は増田城址の堀から取水していたと目されてるものです。町並みの北にある満福寺や延命地蔵堂(ころり地蔵)を訪ねた後、再び町並みを南へ歩きながら、内部を公開している町屋を見学し、内蔵の実際をこの目にしました。 JR東日本のコマーシャルにも取り上げられた、観光物産センター「蔵の駅」(旧石平金物店)の内部は、床の間を配した座敷間を有する「座敷蔵」と呼ばれる造りになっています。この構造は増田の内蔵のおよそ65%を占めているとのことで、それは2階に什器類を格納する板の間も擁する、家族の生活空間としての機能を持つものでした。主屋から内蔵を収容する鞘を貫通して裏口まで「トオリ」と呼ばれる一本の通り土間がつくられ、さらには建物内部に水屋(井戸)が設けられるなど、冬場の積雪時に外に出なくてもよいように配慮されているのも地域ならではの知恵であると言えます。このほかにも、内部を公開しているいくつかの商家を訪ねながら、雪国に根付いた、歴史的な建造物のしなやかな「妙」を感じることができました。
近世そして、近代を迎える時代までは、この増田のような、在郷の中心地においても活気のある町場が形成されていて、それぞれの地域の風土に根ざした個性に溢れる文化が鮮やかに息づいていたことを実感しました。 |
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