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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#13 東京リレーウォーク(5) 〜門前仲町、下町の町場に触れる〜 (江東区) 2008年6月1日、築地から勝鬨橋を渡って月島エリア、佃島を歩いた後、相生橋を越えて江東区域へと入りました。隅田川河口の入り江に位置し、海とかかわりのあるこのエリアは、近世から近代、現代と普段なく続けられた干拓や埋め立てによって海岸線は遥か彼方となり、月島や佃島、石川島といった「島」のつく地名にその史実をわずかに感じさせるのみとなっています。 相生橋を渡って達する越中島も、そんな島の字のある地名の一つです。隅田川河口にある中州があり、藩政期にこのあたりに播州姫路藩・榊原越中守の屋敷があったことが地名の由来であるとする説が知られているようです。越中島プール前には錨のモニュメントがあったり、東京海洋大学のキャンパスがあったりとウォーターフロントを意識させる事物がある一方、清澄通りは緑鮮やかなイチョウ並木をまといながら、マンションや戸建て住宅の立ち並ぶ住宅地域を軽やかに進んでいきます。
大横川を渡ると、江東区深川エリアの繁華街の一つ、門前仲町の範域となります。大横川にかかる黒船橋は、欄干が櫓風のデザインが施され、同様の装飾が橋上に建てられている街路灯のライトの部分にも取り付けられています。街路灯の足元に置かれているプランターも船の形をしていまして、橋全体で統一された意匠がなされています。橋の北詰には門前仲町をはじめ江戸市中に建てられていたという火の見やぐらを模したモニュメントも佇みます。 黒船橋の由来は、1732(享保17)年に、年浅草蔵前黒船町が火災にあった際、焼け跡が日除け地となったため、同町の住民が深川黒江町に移転し地名をとったとか、戦国時代徳川家康に勧誘されたウィリアム・アダムス(三浦按針)が黒船リーフデ号を係留したことに由来するとか、諸説があるようです。
黒船橋を渡ると、街の密度がぐんと上がって、活気のある繁華街に入っていきます。永代通りとの交差点である門前仲町交差点周辺はアーケード街となっていて、大規模な店舗はないものの、非常に活気のある印象です。道行く人並みも本当に多く、ここが歴史ある街場であることを印象づけていました。 門前仲町は、1624(嘉永元)年、富岡八幡宮の別当寺である永代寺が創建され、その門前にある町ということが端緒となっています。永代寺は明治期における廃仏毀釈により廃寺となり、その跡地は現在の深川公園や深川不動堂の場所となっているようです。永代寺は別当寺院の吉祥院が1896(明治23)年に名を引き継ぎ、再興されているとのことです。 活気にあふれる門前仲町の交差点を過ぎて、深川不動堂の参道へと向かいます。
ところでこの深川という地名のことです。江東区の住所地名にも採用されているこの地名は、門前仲町を中心としたエリアの広域地名としても浸透しています。1947(昭和22)年までは東京都(東京市)の区名にも採用されていました(この年、深川区と城東区が合併して江東区が発足)。概ね横十間川より西側の江東区域が旧深川区の範囲にあたるようです。江戸湾に向かう浮島や小島の散在する沼沢地であったこの藩域を干拓した深川八郎右衛門の姓に由来するとするものが通説のようです。深川八郎右衛門は、江戸慶長年間に現在の森下町に本拠をおいて、深川村の開発を始め、小名木川、源森川の整備などが進めたとのことです。 深川不動堂の境内に入りますと、多くの参詣客に圧倒されます。深川不動堂の場所は、元来大寺であった永代寺の境内であったことは前述しました。成田山新勝寺の本尊である不動明王に対する不動尊信仰の江戸での勃興に伴い、永代寺境内で本尊の出張開帳が開催されたことが深川不動堂の起こりとされているのだそうです。永代寺は明治期を迎えて廃寺となったものの、不動尊信仰は認められ、深川不動堂として存続することとなったのだそうです。お堂の小ぢんまりとしたなごやかな佇まいと、背後を颯爽と横切る首都高速の高架とのコントラストが、快晴の青空のもと、鮮やかな都会のスカイラインを演出していました。 富岡八幡宮から清澄庭園方面へは次項にゆずります。 |
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