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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#15 東京リレーウォーク(7) 〜両国界隈、江戸拡大の最前線を行く〜 (中央区・墨田区) 前回(2008年6月1日)の「東京リレーウォーク」において一応の到着地となった両国に向け(実際は菖蒲を観に堀切まで足をのばしましたが)、地元群馬県太田市から一路浅草駅まで来て国道6号(江戸通り)を南し、浅草橋へと至りました。南の浅草橋交差点を東へ進めば間もなく両国橋となります。両国橋の中央区側、国道14号の歩道に「旧跡 両国広小路」と刻まれた石碑が佇みます。明暦の大火(1657年)に浅草橋南詰の浅草御門が閉められて多くの市民が退路を失い犠牲者を出した教訓から、大火後両国橋(当時は「大橋」と呼ばれ、両国橋は通称でした)が架橋され、併せて橋へ向かう道路の沿線一帯を火除地として空き地とし、それがやがて広小路となり両国広小路と称したのだそうです。両国広小路は江戸随一の盛り場に発展し、にぎわいを見せる町場となりました。 両国橋西側のかつての両国広小路エリアは現在は「東日本橋」となり、両国という地名によって想起される地域は隅田川の東側、JR両国駅周辺へと移り変わっていきました。その中で、地域の歴史と広小路を形成した英知を後世に伝えるために1968(昭和44)年にこの石碑が地元町会の総意により建立されたのだそうです。墨田川に合流する神田川に架かる柳橋は、中央区内でも数少ない関東大震災後の復興橋梁として区民有形文化財に登録されています。
両国橋は、上述の理由により隅田川に架けられた二番目の橋で、当時は隅田川が武蔵国と下総国とを分けていたことから「両国橋」の通称で呼ばれました。国技館など地域をシンボライズさせる事物が川の東に集まっていることから、両国というと墨田区側の地域を差すことがほぼ固定化された印象があります(住所地名でも「両国」は墨田区オリジナルとなりました)。シンプルなファサードが古き良き時代を感じさせる両国駅前を右手に、力士の四股名がプリントされたカラフルな幟が並ぶ一角を通過し、旧安田庭園へ。 旧安田庭園は、1701(元禄4)年、常陸笠間藩藩主本庄因幡守宗資(むねすけ)が下屋敷として拝領、庭園が築造されたことが由緒のようです。隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満により変化を楽しむ潮入り池泉廻遊式庭園であるとのことです。現在は川の水は流入されておらず、代わりに水の浄化も兼ねた浄化槽を地下に設置して、人工的に潮入が再現されています。旧安田庭園の名は、明治の一時期安田財閥の所有となり、後に当時の東京市に寄付された経緯によるものです(現在は墨田区の所管となり、同区が管理を行っています)。彼岸花がすがすがしい朱色の花弁を開き始めたその先に展開する緑の庭園は、この町が大名の暮らす町であった歴史を溶け込ませながら、コンクリートに溢れたウォーターフロントにうるおいと涼やかさとを与えていました。旧安田庭園の北東には横網町公園。東京都慰霊堂が建立され、関東大震災や第二次世界大戦の犠牲者の霊を慰めています。
再び国技館前を過ぎ、「相撲の町」としての色彩の濃いエリアを進みます。両国駅は、1904(明治37)年、当時の総武鉄道の「両国橋駅」として誕生しました(1907年に国有化されます)。高架ホームの下に見える3番線臨時ホームは、かつて両国駅が房総方面へのターミナル駅であった名残です。東京駅から錦糸町駅まで地下を通過するルートで総武快速線が開通(1972年)して以降は、基本的に両国駅は総武線普通列車のみが停車する駅となるまでは、千葉方面からの路線の都心側のターミナル駅として大きな拠点性を有し、都心方面へ都電に乗り換える人々で大いににぎわったのだそうです。 国道14号(京葉道路)を挟み、向かいには回向院。両国シティコアの建築物群に囲まれてアーケード風の山門があります。この場所は「大鉄傘(だいてっさん)と呼ばれた旧国技館があった場所です。1909(明治42)年、東京駅などを設計した辰野金吾が設計を監修したドーム状の建物は、1万3千人を収容できる当時としては最大級の競技場であったといいます。両国橋を渡り、穏やかな市街地景観の中に燦然と屹立した大鉄傘は、両国ひいては東京を代表するランドマークとして堂々たる威容を見せていたことでしょう。戦後旧国技館はGHQへの接収後メモリアルホールと改称され、接収解除後の日本大学講堂としての時代を経て老朽化により1983(昭和58)年に解体されています。両国駅北側にある現在の国技館は貨物操車場跡に1985(昭和60)年に完成をみています。
回向院の境内を抜け、首都高速7号線が直上を通過する竪川を塩原橋にて渡りさらに南へ進みます。竪川は1659(万治2)年に開削が始められた人工の水路で、大横川や横十間川などの水路や江戸市中とのノードとなった両国橋とともに、本所エリア(現墨田区の南部)の開拓の第一歩となりました。当初は低湿な土地の排水用につくられた掘割は、後に隅田川と中川とを結ぶ物流のチャネルとしての重要性が高まり、川岸には材木屋も集積し、南接する木場へと続く産業エリアを構成していました。建築物は現代のものに置換されているものの、住商工の穏やかに混在する下町的な地域性がそのまま存続しているように感じられます。 隅田川端に建つマンションの間を抜けて、隅田川テラスへと出ました。空が急に開けて、なめらかに日の光を返す川面が鮮やかに目に入って、テラスの緑とともに爽快な都市の風景が展開されていきます。新大橋をくぐり、小名木川に行き渡り江東区芭蕉庵史跡展望公園へ。隅田川と小名木川とが合流する現代の東京を、芭蕉像がゆったりと見下ろしていました。芭蕉稲荷などの芭蕉ゆかりの事物が点在する深川芭蕉通りを歩きながら東へ、歩道にアーケードがかかる下町の温もりが伝わってくるような商店街に癒されながら深川エリアへと歩を進めていきました。 |
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