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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#39 東京リレーウォーク(24) 〜世田谷彷徨、江戸近傍の変化を読む〜 (世田谷区) 2011年2月5日、世田谷区北東部の梅ヶ丘駅から地域の彷徨をスタートさせました。前年の狛江フィールドワークから小田急線を少し東へ向かった同駅は梅の名所として知られる羽根木公園の最寄駅です。暗渠となった北沢川緑道を越えて高台の公園へ進みます。およそ650本が植えられているという梅はまだ咲き初めでしたが、一部にあでやかな花を開いていました。
再び北沢川緑道に戻り西へ進みます。北沢川は目黒川の支流で、現在はすべて暗渠となり自然河川としては機能していません。東京周辺の台地を削る小河川の多くは都市化に伴いこのように暗渠となって緑道として供されています。たおやかな山野を緩やかに流れていたであろうかつての小川のたたずまいは今、住宅地域の間を蛇行するように進む緑道の曲線にわずかに感じられるにすぎません。北沢川緑道を進み、豪徳寺駅で鉄路の下をくぐって、世田谷区役所などが集積するエリアへ歩を進めました。付近は駅前の近隣商店街となっていて、狭隘な道路に面して小規模な商店が軒を連ねています。世田谷区の北部のこの一帯は、新宿駅から放射状に延びる路線の沿線にあたり、大正期から昭和初期にかけて鉄路が開通し、関東大震災後の転入や第二次世界大戦後の高度経済成長期に急激な都市化を見た地域にあたります。そのため、純農村的な土地利用であったものが一気に宅地化し、狭い街路網が維持された経緯が類推されます。商店街の該当に掲げられた幟には猫をモチーフにしたキャラクターがデザインされています。これは招き猫発祥の地の伝説があり、付近の地名の由来ともなっている豪徳寺に因むものであるのでしょう。 東急世田谷線の軌道に沿った閑静な住宅街を進み、豪徳寺の境内を一瞥しながら梅丘地内を進みました。北沢川と並び目黒川の支流である烏山川緑道(こちらも暗渠化され、緑道となっている)に行き当たる北側には世田谷城阯公園の丘陵があります。世田谷城は、奥州吉良氏が南北朝の頃、関東管領足利基氏から、戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであるとされる、戦国期の城柵の遺跡です。世田谷城は、吉良氏八代、二百数十年の間、当代の居城として栄え、吉良御所、世田谷御所とも呼ばれたようです。1590(天正18)年の世に知られる豊臣秀吉の北条氏小田原城攻めにより、吉良氏は北条氏と姻戚関係があったため、世田谷城も廃城しています。現在は周囲が宅地化された中のあって土塁などの往時の遺構が残る、歴史と豊かな緑地景観とを感じることのできる貴重な場所となっているようでした。
世田谷城阯公園からさらに南に進み、東急世田谷線上町駅付近で軌道を越えますと、世田谷通りに到達します。地域を横断する大通りである世田谷通りが、桜小学校の南あたり、住所表示で言うと世田谷二丁目13番あたりで都道3号の旧道とかすかに交わりながら進んでいる形が見て取れます。桜小学校前信号から見ると現道と旧道とが「X」の形になっています。このXの字の東端を東へ、世田谷通りの南を並行し、世田谷一丁目郵便局の南を進む通りは、藩政期の頃から地域の主要道路として機能してきた伝統のある道路で、現在の川崎市登戸へ向かうことから「登戸道」と呼ばれており、今日の世田谷通りの前身ともなっています。大山街道(現在の国道246号)から三軒茶屋で分岐するのも現在と同様です。明治期の地勢図にもその道路がはっきりと描かれています。 世田谷一丁目郵便局前から世田谷中央病院前付近までの通りは「ボロ市通り」と呼ばれ、前述の世田谷城下で始まった楽市を起源とする蚤の市を中心とした「ボロ市」が開催される通りとして著名です。市は毎年12月と1月の15日・16日に開催され、開催時には世田谷線も増発されるなど、多くの人出でにぎわいます。通りのほぼ中央には世田谷代官屋敷の建物があります。江戸中期の建築である茅葺の代官所や表門などが残り、江戸期における代官屋敷の様相を今に伝えています。代官職を務めた大場氏は、彦根藩井伊家が所領していた世田谷一帯を廃藩置県に至るまで世襲し統治しました。明治期の地勢図にもこの通り付近が街村を形成していたことが描かれていまして、地域の中心的な集落として町場を形成してきたことが分かります。そしてその伝統は現在においても「ボロ市」に息づいてます。
ボロ市通りを概観した後は、夕刻が迫る中、小規模な商店街を進みながら松陰神社へ到達した後、世田谷線を利用し三軒茶屋駅まで移動しこの日の行動を終えました。世田谷区の中央部における繁華街を形成する三軒茶屋駅周辺は、キャロットタワーを中心とした再開発がおこなわれた現代的な表情を見せる一方、江戸時代中期以降街道の分岐点に発達した町場としての歴史を感じさせるようなアーケード状の商店街も存在しています。大山道と登戸道(三軒茶屋の現地に掲げられた説明表示には、大山道の本道、旧大山道などの記載もありました)の追分に田中屋、信楽(後に石橋屋)、角屋の三軒の茶屋があったことからその名がついたという三軒茶屋は、都心や渋谷への好アクセスから現在でも多くの人々を惹き付ける町として輝きを増しているように感じられました。 |
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