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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#86 高輪ゲートウェイ駅とその周辺 〜新駅と崖上の穏やかな住宅地〜 (港区) 2020年3月21日、九段から新宿あたりを歩いていた私は、山手線で移動し、3月14日に開業したばかりの高輪ゲートウェイ駅へと降り立ちました。かつての田町車両センターの再編により生み出される用地を活用した再開発事業の一環として開業した真新しい駅の構内は、透光性の高い屋根や壁面、そしてホームを見下ろせる巨大な吹き抜けによって明るい空間となっていまして、折り紙をイメージした大屋根などの意匠とともに、和としなやかさとが感じられるようなものとなっているように感じられました。
西側の区画は訪問時点では再開発事業に伴う工事が進捗中で、新駅はまだ第一京浜(国道15号)との間に隔絶性がある状況でした。第一京浜は旧東海道の道筋でして、明治以降にはそれに沿って、海上に築堤が設けられその上に鉄道が走っていました。再開発の工事中にその築堤の遺構が発見され、その保存が進められることとなることでも話題になりました。駅を出て泉岳寺駅方面に続く道路を歩き、泉岳寺交差点へ。国道を横断し、高輪稲荷神社の脇の坂道(伊皿子坂)へと入ります。坂は程なくして北へカーブを描きますが、その正面には泉岳寺の中門があります。中門を入りますと、門前にある土産物店のある部分を経て、二層の山門が目に入ります。赤穂事件で知られる浅野長矩墓および赤穂義士墓には、例年多くの参詣者が訪れています。 泉岳寺の門前から伊皿子坂を上がり、高輪周辺の町並みを歩きます。この付近は、元来台地が海岸線に迫り、狭い平地を東海道が通り抜けていました。そのため、台地上に向かう坂道からは江戸前の海が美しく眺望できていました。現在では汀はかなり遠くなり、無数の建築物に充填された市街地の只中となっていて、坂道の風景だけが往時の地勢を保存しているといえるのかもしれません。坂道にはこの伊皿子坂をはじめ特色のある様々な名前がつけられていまして、それらの坂道が人々の日常生活に密接に結びついていたことを実感させます。
伊皿子交差点を左に折れて、高輪台町町会のある通りを進みます。通りの周辺はまた中低層のマンションや住宅が建ち並ぶ穏やかな住宅地となっていまして、その中に高輪高校や東海大学といった文教施設もあるエリアとなっています。通りから東は台地を下る坂となっていて、宅地の間を抜ける小道であったり、寺院の参道であったりで、それぞれが多種多様な風情を見せ手板のが印象的でした。そのうちのひとつの道に入ってみますと、承教寺の門前を通り、高輪台小学校の横を抜けて、桂坂の通りを横断、階段となっている箇所を経て、東禅寺のあたりへと至りました。東禅寺は豊かな木々に包まれた穏やかな境内地を持っていまして、三重塔などの堂宇がこの静かな住宅地が卓越する高輪の地域に一定の清閑さを与えていました。同寺は、1859(安政6)年に、日本で最初のイギリス公使館が設置された場所としても知られています。 東禅寺の門前から洞坂の狭い坂道を上って桂坂の通りに戻り、高輪幼稚園方向へ上る階段を上がって、泉岳寺の南側へと続く路地を歩いて、坂道と住宅地とが隣り合うような高輪の町並みを巡りました。第一京浜へと出た後は、大通りに面する高輪神社に参詣しつつ、高輪ゲートウェイ駅へと戻りました。高輪ゲートウェイ駅の周辺は今後再開発が進むとともに商業施設などが続々と開設されるとともに、保存が予定されている高輪築堤の文化的な側面もアクセントとなって、高輪エリアにおける新しいランドマークとなっていくものと思われます。
高輪ゲートウェイ駅を起終点として巡った高輪の町並みは、特色あるたくさんの坂道が織りなす風景とともに、かつて海に接した歴史的な地域としての雰囲気も濃厚に残す、とてもしなやかで穏やかな場所であるように思われました。 |
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