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屋久島種子島、緑水霧幻
2015年8月、屋久島・種子島を訪れました。雨と隣り合わせのような旅程となりましたが、雨と緑に象徴されるような自然の屋久島と、たおやかな地形に豊穣を感じさせた種子島を実感できる道筋となりました。 |
縄文杉 (屋久島町楠川、2015.8.29撮影) |
種子島宇宙センター・宇宙科学技術館 (南種子町茎永、2015.8.30撮影) |
訪問者カウンタ ページ設置:2017年5月29日 |
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屋久島概観 〜水に照らされる自然〜 2015年8月28日から31日にかけて、屋久島に滞在しました。鹿児島空港でトランジットし、錦江湾を縦断して南海上の屋久島へ。九州地方最高峰の宮之浦岳を含む峰々が中央部に連なる屋久島は雨が多いことで知られます。到着したこの日はそういった意味では「珍しく」、島は晴天の下にありました。暦の上では秋になり半月以上経過しているとはいえ、夏空のきらめきそのままの青空は島の大地にふんだんにその熱を届けていました。島東部の空港近くでレンタカーを調達し、島の自然や都市景観などを概観することとしました。
1993(平成5)年、屋久島は白神山地とともに日本で最初の世界自然遺産に登録されました。千年という樹齢を誇る屋久杉をはじめとした唯一無二の自然は、多彩な生態系を包摂しながら、約1万3,000人が生活する島に息づいています。残暑のきらめきにあふれた青空と島の風景とを確認しながら、島を外周する道路を西進します。屋久島は周囲約130キロメートル、面積500平方キロメートル余りのほぼ円形の島です。島は長らく北部の上屋久町と南部の約兆ノ2兆の町域に分かれていましたが、2007年10月に両町は統合し、現在は島のすべてが屋久島町の範域となっています(屋久島のほか、口永良部島も同町の範囲となります)。島北部の主邑・宮之浦の町に入り、宮之浦川の手前で南に入る県道へと進路をとります。車道から直接アクセスでき、比較的気軽に屋久島の原生林を体感できる「白谷雲水峡(しらたにうんすいきょう)」への入り口となる道路を進みます。 前述のとおり、屋久島はその中枢部に1,000メートル級の急峻な山々を擁し、「洋上アルプス」の異名もあるような山がちな島です。海岸部の平坦地は狭く、道路は程なくして坂道の連続となっていきます。植生が途切れ、北側への視界が利く場所では、宮之浦川がつくる小さな沖積地に発達した宮之浦の市街地を見通すことができました。白谷雲水峡は、宮之浦川の支流、白谷川の上流にある約420ヘクタールほどの自然休養林で、入り口の標高は620メートルほどとなります。この標高差を沿岸から約12キロメートルの道のりで登って行くことになります。進行方向には、木々の間から山々のピークが見通せました。最高峰の宮之浦岳(標高1,936メートル)をはじめとした島の主峰は沿岸部からは見通せないため「奥岳」と呼ばれます。フロントグラス越しに見えたそれらの山々はやはり奥岳でなく、「前岳」と呼ばれる奥岳周辺の山々であったのでしょう。
白谷雲水峡は、温暖な地域に分布する照葉樹林帯から、一般に屋久杉と呼ばれる樹齢1000年以上の杉林(標高500メートル以上の場所に分布します)へと移り変わる場所にあたります。照葉樹林帯を代表するイスノキ、ウラジロガシ、タブノキなどが峡谷に沿って豊かな森林を形成し、随所に齢を重ねた屋久杉の巨木があって、屋久杉林帯を代表するスギ、ツガ、モミなどの大木も認められる、多様な森林層を観察することができます。雨の多い気候を反映し、倒木には緑鮮やかな苔が繁茂して地面を覆い、そうした地面からは幼木の芽が生えて、この島の幾星霜の自然の歴史を感じさせます。 峡谷に沿って取り付けられた遊歩道は、時にダイナミックな岩盤を通過し、吊橋を越えて、緑で彩られる森の中を快く進んでいきます。そのメインルートから斜面には、名前の付いた屋久杉へと向かう脇道も整備されていまして、樹齢3,000年という弥生杉を周回するコースへと足を踏み入れました。分岐点からおよそ30分の急勾配の遊歩道を進みますと、弥生杉がその雄大な幹を目の前に現しました。間近に見る樹高26.1メートル、幹回り約8メートルの大杉は、照葉樹の木々に守られるようにしてそこにありました。周囲を圧倒するというよりは、周りを穏やかに見守っているかのような容貌が印象的でした。遊歩道は弥生杉の周囲を回った後は下り階段となり、弥生杉の根元まで私を誘いました。屋久島を洗う風雨に負けず大地にしっかりと根を張ったその姿は、霖雨に抗うことなく寄り添うようなたおやかさを感じさせました。
弥生杉を観た後は、峡谷沿いのトレッキングコースを進み、藩政期に材木を年貢として納めるために伐採した屋久杉を運搬するルートとして整備されたという楠川歩道を歩き、くぐり杉などの名前の付いた杉の姿を一瞥しながら、「苔むす森」と名付けられた、地面一帯を覆い尽す苔の緑がみずみずしい場所へと到達しました。1か月に35日雨が降ると形容される屋久島の気候は、まさに水と共にある環境と、それに適応した生態系を育みました。木漏れ日が射し込む緑いっぱいの苔の絨毯は、モスグリーンというよりもエメラルドグリーンに近い輝きを持ち合わせているように目に快く映りました。 白谷雲水峡の訪問後は、志戸子(しとご)ガジュマル園やウミガメの上陸地として知られる永田浜を訪れてから島の外周道路を東へ取って返し島南西部に位置する大川(おおこ)の滝へと進んで、島の風景を見つめました。それは、島の大地を隅々まで涵養する天水に照らされた自然の姿であったように感じられました。 縄文杉を訪ねる 〜雨の島を体感する道のり〜 屋久島滞在2日目は、未明にホテルを出発し、屋久島を代表する巨樹・縄文杉を目指すトレッキングへと向かいました。屋久杉自然館前を午前4時30分頃に出発したバスに乗り、荒川登山口へ。午前5時20分、まだ薄暗い中、縄文杉への一歩を踏み出しました。8月下旬という時期もあり、多くの人々が登山口に集まっていました。
縄文杉への登山道の全行程片道約10.7キロメートルのうち、8.2キロメートルはトロッコ道と呼ばれる、トロッコの軌道(レール)が敷設された山道を進みます。1923(大正12)年の開通以降1969(昭和44)年の運行終了まで、伐採した屋久杉の運搬を行っていたこの軌道は、屋久杉の伐採が禁止されている現在では、発電所の維持管理や登山道沿線のトイレの管理などのために活用されてまして、それは運用中の森林軌道としては日本最後のものであるとのことです。岩盤をくりぬいた隧道あり、深い谷を渡る鉄橋あり、みずみずしい木々が生い茂る山中を、レールを辿り歩いていきます。軌道敷ということもあり勾配がほとんどなくて、比較的歩きやすい行程です。 歩き始めておよそ40分、夜も明けて、安房川に架かる小杉谷橋を渡ったその先に、「小杉谷小・中学校跡」と書かれた案内板が設置されていました。木材搬出の前線基地として、かつてこの場所に小杉谷集落があったことを今に伝えるものです。最盛期の1965(昭和35)年には133世帯540人が暮らしていたということで、郵便局や商店なども立地していたということですから、相応の規模の街並みがここにあったということになります。学校跡の敷地や軌道沿いにある石積みの基礎や石段を除き往時を偲ばせるものはなくて、かつての林業の中心地は山奥の森へ還りつつある只中の時間を、静かに刻んでいました。
屋久杉がまだ伐採されていたころは、木をすべて切らずに一部を残して母樹とし、周囲に芽生えた幼木を育てて資源を枯渇させないようにしていたといいます。伐採が終了した1969(昭和44)年以降はそうした若い木々が順調に生育して、多くの樹齢の杉が混交した林を形成していました(育成複層林)。前日訪れた白谷雲水峡へと続く楠川別れを過ぎ、小杉谷集落跡からおよそ30分の場所に「三代杉」と名付けられた杉がありました。1500年前に倒れた一代目の上に二代目が生育し、二代目の切株の上に三代目が根を張っています。樹齢の長い杉が多い島の自然と、林業で栄えた島の歴史を、その木は象徴しているように思われました。長い長いトロッコ道をひたすら歩き、午前7時50分頃に、トロッコ道から縄文杉へと続く山道である「大株歩道」の入口に到達しました。入口にはここからは急坂になること、おそくとも午前10時前には通過すること、縄文杉は午後1時には必ず出発することなどを注意する看板が設置されていました。その文章が暗示するとおり、ここからの道のりは本当に険しい山道の連続となりました。 トロッコ道を歩いている時から少しずつ振り出してきた雨は、大株歩道に入るあたりから徐々に本降りとなりました。始めは傘をさしてしのげていた雨も時折激しい降りとなるときもあって、傘を合羽に変えての踏破となりました。雨が強く降る時間帯は、雨をしのげる木陰などでの小休止も余儀なくされました。急激なアップダウンの連続や足場の悪い木々の根の張った部分などもあって、体力の消耗も相まって、人生で経験したことのない激しい疲労と闘いながらのトレッキングとなりました。沿道は名前の付いたものをはじめとした多くの屋久杉が生育する森となっていまして、自然の豊かさと厳しさとを体感しながらの歩行となりました。翁杉跡地(2010(平成22)年9月に幹が折れる)を確認し、樹齢2000年以上とされる屋久杉の切株である「ウィルソン株」へ。空洞となっている株の中に入り、降りしきる雨にただ濡れる森の姿を切り株越しに眺めました。この森で命をつなぐ木々も、そこを訪れる人間も、降る雨には同じように濡れる生命であるということを実感します。
ウィルソン株を過ぎてからは、さらにハードな山道の連続となります。手元に残るデジタルカメラで撮影した写真も、レンズが水滴で濡れて曇っているものが多くあります。斜面を刻む谷筋を降りては登り、依然として降り続く雨に足許をとられながら、力を振り絞り先を目指しました。大王杉や夫婦杉といった個性的な屋久杉を確認しながら進み、最後の長大な階段を上った先に、やっと目指す縄文杉が姿を現しました。写真撮影時刻は午前10時10分。荒川登山口から約5時間の踏破を経ての到達でした。樹高25.3メートル、胸高周囲16.4メートルという堂々たる大杉は、周囲の森に埋もれるようにして、大地にしっかりとその根を下ろしていました。 縄文杉は、自然保護のために近寄ることはできず、周囲に設けられたデッキから観察することになります。縄文杉の前でしばし休息した後は、来た道を取って返し、午後2時30分頃、荒川登山口へと戻ることができました。雨は止むことなくさらにその勢いを増していまして、雨の多い屋久島の気候をまさに身をもって経験した縄文杉訪問となりました。天空から降り注ぐ雨は、ここに息づく生命に時に試練を与えながらも、ここで生きる術を指し示す恩寵そのものであると感じられました。 |
後編へ続く
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