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山辺の道、青垣碧壌
山辺の道から今井町へ ~古い街並みに触れる~ 夜都伎神社を後にし、白塗りの土蔵と茶色の板張りの壁とのコントラストが奥ゆかしい乙木集落を抜けますと、環濠集落として知られる竹之内集落は目と鼻の先です。周辺は穏やかな田園地帯となっており、ビニールハウスでは特産のいちごの栽培が盛んに行われているようです。ルートも農作業の軽トラックが行き過ぎるような農道といった風情で、水菜やアブラナなどの菜の花が鮮やかに咲く中で実に快い散策を楽しむことができます。野菜も多く栽培されているようで、所々にいちごをはじめ、菜花やハッサク、千切り大根(関東で言う「切干大根」)などの農作物が無人販売所に並んでいました。周囲の丘陵地にしばしば見られる竹林もたいへんにさわやかな印象です。 竹之内集落は、大和や河内など地域に多く分布する、集落の周囲に濠を巡らせた「環濠集落」のひとつで、戦国期の動乱から集落を防御するために発達した形態であると考えられています。竹之内集落の特色としては、低地で発達した環濠集落が、丘陵を背にした山麓に形成されていることにあります。西流する流れが山裾を出る部分に形作られた小規模な扇状地状の地形を利用した集落を囲む環濠は今、埋め戻されて集落の西側にわずかに残されて往時を物語っています。濠を埋めた一部に設置された公園のソメイヨシノのつぼみはまだ固く、春本番をじっと待っているように感じられました。集落内には農作物の集荷施設が設置され、静かな農業集落の姿を見せていました。 環濠集落の痕跡は南の萱生(かよう)集落にも濃厚に認められます。
もはやご紹介するまでもないほどに、奈良盆地は全国でも有数の古墳の集積地域です。特に、天理市の南部から桜井市にかけては大小さまざまな古墳がまとまっていて、山辺の道のルートも古墳を縫うように進んでいきます。萱生集落に接する西山塚古墳や「衾田陵」として管理される西殿塚古墳など、丘陵に寄り添うようにおびただしい古墳が現れます。それはほとんど日常的な風景として周囲に溶け込んでいます。山辺の道のルートからはやや西へ外れるものの、最古期の古墳では最大級とされる箸墓古墳も近い位置に所在します。常夜燈が設置された昔ながらの情景が快い家並みを抜けて、崇神天皇陵や景行天皇陵の脇を進んできます。このあたりからはこれまで見えていた生駒山地や矢田丘陵に加え、南の大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山の三座)や二上山、金剛山地への見通しも利くようになって、さらにたおやかな奈良盆地の風景を楽しむことができるようになります。多くの滑らかな稜線がたなびくまさに「大和青垣」そのものが目の前に現出していきます。 天理市から桜井市域に入り、「大和青垣」の山並みに寄り添う山辺の道は檜原神社、玄賓庵といった寺社を経由しながら、石上神宮などと並び日本最古の神社の一つとされる大神神社(おおみわじんじゃ)へと続いていきます。大神神社は背後の三輪山そのものを神体とするため本殿がなく拝殿から神体である三輪山を仰ぎ見る形をとります。大和青垣の中でも目を引く流麗な稜線をもつその山容はほんとうに穏やかで、神のおわす山(神奈備)として象徴性はその優美さの中に存分ににじみ出ているような気がいたしました。
大神神社の参道を進み、彼方に屹立する大鳥居を一瞥しながらJR三輪駅へ。桜井線を畝傍駅で下車し、中世には「海の堺、陸の今井」と称されるほどに繁栄を極めた環濠都市の面影を濃厚に残す今井町へと向かいました。畝傍駅は、橿原市の中心市街地に所在しながらも、近鉄線の利用が優勢である事情からローカル色が強く、その貴賓室が設けられるほどの重厚な結構に比して駅前はかなり閑散とした印象です。北にある近鉄の大和八木駅は2路線がクロスし実質的な中心駅として機能しています。奈良盆地は灌漑用のため池が多いのも特徴で、かつて存在したため池を埋め立てて新たに広い駅前ロータリーが建設された南口を出て、今井町へと進みます。 橿原線の鉄路を踏切で越え、JR桜井線が走る土手の下をくぐり、飛鳥川の流れを渡りますと、昔ながらの旧家が数多く残る今井町へと至ります。今井町は16世紀の中頃に、浄土真宗(一向宗)布教の拠点として形成された寺内町です。現在でも町内には複数の古刹が佇みます。1575(天正3)年に、一向宗と敵対していた織田信長と降伏した後は自治経済都市として成長し、「大和の金は今井に七分」と呼ばれる栄華を誇りました。東西約600メートル、南北約310メートル(面積約17.4ヘクタールの地区には、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟が伝統的建造物であるとのことで、その集積度は全国有数の規模です。その歴史的な希少性・重要性から、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。
かつて三重の濠がめぐらされ、限られた門からのみ出入りができたという寺内町は、その町並みの美しさもさることながら、筋違いの道路など防衛上見通しが利かないよう計画的に配置された町割りもほぼそのまま残されていることが特筆されます。また、東西の通りには「大工町筋」などの名前が付け得られていることも都市としての名残を感じさせます。環濠も南西端など一部に残されて、小公園として修景がなされています。重要文化財に指定された町屋を中心に特色ある建築様式を今に残す町並みは、まさに別世界に紛れ込んだような印象です。町の南からは大和三山の一つ畝傍山の山容も眺めることができました。
中世の市場町の余韻が残る丹波市からはじまり、歴史的な史跡とのびやかな自然景観とがどこまでも快い山辺の道を辿った今回の踏破は、戦国期以降寺内町、そして一大商業都市として飛翔した今井町の姿に結実しました。その道のりは、みずみずしい山並みに抱かれたこの地を古来の政権が拠点にして以来、多くの勢力がこの地を割拠し、盛衰の跡を記してきました。それらの積み重ねを余すところなく大地に刻む大和の地は、今も昔も「まほろばの地」であるのだろうと実感する行程となりました。 |
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