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HIROSHIMA REVIEW

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#5 広島駅界隈 〜続・水の都広島を感じて〜

広島は、7つの川の流れる、水の都と美称されることは前項でお話しました。広島駅から市外の中心部方面へ向かう路面電車は、駅を出て間を置かず猿猴(えんこう)川、京橋川と水路を越えて進みます。近代的な高層建築物群によって充填され、アーチ状の欄干が特徴的な駅前大橋を越えるシンボルロード・駅前通りがさっそうと伸びる広島駅前はまた、高度成長期の雰囲気を今に伝える庶民的な商店街をも存立する活気のあるエリアとなっているように感じられました。夏の日差しをアーケード下に避けながら荒神町の中高層住商混在地域を歩みますと、浄光寺の山門ビルディングの中にどっしりと屹立していました。この山門の建立は1690(元禄3)年頃とされているのだそうです。1945年8月のあの日、この寺院の本堂をはじめ荒神町一帯は強烈な爆風とその後の火災により多くの建築物が全壊全焼した中にあって、本堂にさえぎられたこの山門は奇跡的に焼け残り、一部保存工事を経ながらも今に至っているものであるのだそうです。

山門の前を後にして、北の路地を西に進みますと、広電のおおくの車両の行き交う電車通りへと行き着きます。荒神三叉路を軽やかに通う路面電車は、夏空のもと少しもひるむことなく錯綜する運行ダイヤや自動車など他の車両の流れと共存しながら実にてきぱきと駅方面へ、あるいは荒神橋方面へと走り去っていきます。その姿こそ、今日の広島のたゆまない経済活動の原動力の1つとなっているのだと実感しました。猿猴橋町電停の南の信号を横断し、路地を進むと程なくして猿猴橋にたどり着きます。猿猴(えんこう)橋の竣工は1925(大正16)年3月。原爆による一部欄干の破損はあったものの、基本的に現在まで使用されているいわゆる被爆橋梁の1つであるようです。石灯籠のような柱が赴きを添えるこの橋の欄干には、戦争中に金属供出により外されてしまうまでは2頭の猿(猿猴)が向かい合って1つの桃を掲げている飾りが、また親柱の上には地球儀の上に載った鷲の像が、それぞれ据え付けられていたのだそうです。

JR広島駅

JR広島駅・出発する広島電鉄車両
(南区松原町、2005.8.7撮影)
浄光寺山門

浄光寺山門
(南区荒神町、2006.8.7撮影)
駅前大橋より南西方向

駅前大橋より南西方向を眺める
(南区松原町、2005.8.7撮影)
猿猴橋町電停

広島電鉄・グリーンムーバ(猿猴橋町電停にて)
(南区猿猴橋町、2005.8.7撮影)

猿猴橋を西へ渡りますと、幹線道路である城南通りに突き当たります。しかしながら、地図をよく見ると、城南通りと駅前通りとに面するホテルセンチュリー21広島を介して猿猴橋を渡る道と京橋を渡る道とが1つのつながった道路であるかのように滑らかに連接していることが見て取れます。これは、猿猴橋〜京橋へ至るルートそのものが、旧山陽道(西国街道)の道筋を踏襲したものであることによります。古来より山陽道は海田市から船越峠をこえ、大内峠を経て二葉山、己斐と山沿いを通過していたものが、毛利元就の孫輝元によって、山陽道が1588(天正16)年から2か年で完成させた広島城下に引き入れられたことに伴うものでした。京橋からの山陽道は、現在の住居表示で言えば銀山町、堀川町、本通を経て元安橋を超え、平和公園内を抜けて本川橋へ、堺町などを経由しながら己斐へ向かう順路となっていたのだそうです。

京橋は、西国街道の通過する橋として、「京へ続く橋」の意味から毛利輝元によって命名されたといわれています。オリジナルの橋の完成は1591(天正19)年という伝統を持ちます。現在の橋の供用開始は1927(昭和2)年8月。猿猴橋同様、この橋も被爆橋梁の1つです。親柱、欄干の途中の柱ともに四角柱のどっしりとした石造のつくりで、シンプルながらも全体として重厚感のある容貌です。たゆたうような京橋川の流れは夏空の下いっそうその穏やかさを増して、周囲の現代の都市景観の猛々しさを大いに緩和させてくれています。南の電車通りである稲荷大橋と、北の城南通りを載せる上柳橋とに挟まれた京橋は河岸の緑のやわらかさに包まれて緩やかな表情持つ存在感が印象的でした。

猿猴橋より南(荒神橋)を眺める

猿猴橋より南(荒神橋)を眺める
(南区猿猴橋町/的場町一丁目、2005.8.7撮影)
京橋

京橋(東詰より)
(南区京橋町、2005.8.7撮影)
京橋より南(稲荷大橋)を眺める

京橋より南(稲荷大橋)を眺める
(南区京橋町、2005.8.7撮影)
京橋川・猿猴川分流点

京橋川・猿猴川分流点
(南区京橋町、2005.8.7撮影)

京橋が越える京橋川は、この京へと向かう橋があることから明治以降この名前で呼ばれるようになったといいます。京橋を西へ渡り、京橋のきらきら光る流れを右に見ながら、緑の影を落とす遊歩道を歩みました。程なくして、上柳橋に至り、その上流の猿猴川の分流点へと向かいました。この位置からはJR広島駅正面を再び見据えるアングルとなりまして、駅の北側、二葉通り方面へと鉄路を越える跨線橋を介して、広島駅周辺の高密な建造物群が豪快な姿を見せているのがたいへん印象的です。跨線橋や城南通りは多くの車両が通過して、現代都市・広島がたゆみない歩みを進めることを示す血流のようにも感じ取れます。そんな趨勢の中で、京橋川や猿猴川の流れはかわらぬ静かさと輝かしさとを内包しながら、まちをゆったりと流れていきます。川の流れがつくる市街地の空隙の向こうには、二葉山や黄金山などの山々の姿も快く眺められます。そして、広島城下町設営以来西国街道筋としてその役割を果たし続けてきた京橋や猿猴橋は、その変わらぬ広島の姿を今にとどめながら、実にやさしい眼差しで地域を見つめているようにも感じられました。

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