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HIROSHIMA REVIEW

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#6 上幟町界隈 〜都市と緑に彩られる住宅地域〜

上柳橋により広島駅周辺から西へ流れてくる車両の流れは、城南通りの大幹線によって八丁堀の官庁街方面へと導かれていきます。城南通りは宇品から市街地を経て広島都市高速となり安佐南区の広域公園方面へと至る一大幹線道路として、格段に利便性の高い道路であるようです。そんな城南通りを歩んでいますと、センダンの緑が大変にみずみずしい並木が目に鮮やかでした。大通りは都市におけるグリーンベルトとなって、この地域を美しく魅せてくれているように感じられました。センダンの並木道を北へ。緑のあふれる上幟町公園の角を折れて進みます。城南通りと白島通り、そして京橋川の流れによって画された一帯は、現在は「上幟町(かみのぼりちょう)」の住居表示で統一されています。上幟町エリアを歩いていて感じたことは、百万都市の中心業務地区に近接しつつも、実に穏やかな雰囲気であることでした。上幟町の区域は、南に接する幟町エリアと並んで広島駅が間近という立地ながらも、ビジネス街的な、あるいは繁華街的な要素があまり強くないエリアであるようです。周辺は高層住宅群となっておりまして、緑豊かな環境もあいまって、この静かな環境が確保されているように感じられます。中国あるいは四国地方に渡る一帯の政治経済の中枢たる街にあって、このようなゆったりとした散策ができる穏やかな街区の存在はたいへん貴重ではないかとも思われました。そんな落ち着いた佇まいの街角に、広島流川教会の礼拝施設が、地域の雰囲気そのままの容貌で営まれておりました。

教会外壁には、この教会の原爆による被害を記した写真と説明が表示されています。「原子爆弾によって崩壊した旧会堂」と題された写真は、一面焼け野原の中に外壁のみ残して崩れ落ちた教会の建物の様子が凄惨な印象です。説明書きには、「当時は、現電停「胡町」筋向いにあった、被爆後焼け残った外枠壁を用いて再建されたが、原爆放射熱で脆くなっていた壁が崩れやすく修理困難のため、保存を断念した」とまとめられています。広島流川教会は、「流川」の名前が示すとおり、被爆までは流川長に程近い、胡町電停付近(旧町名「上流川町」)にあり、礼拝堂の存続利用が困難と判断された後、現在地に再建されたものであることが分かります。同教会は、戦後恒久平和の実現と被爆者の支援・保護のために積極的な活動を行ってきたことで知られます。アメリカの教会や慈善団体と連携して、原爆孤児に対する精神養子運動や原爆乙女渡米治療運動に真摯に取り組まれました。

城南通り

城南通り・センダンの並木
(中区上幟町、2005.8.7撮影)
上幟町9番

上幟町9番北東角交差点付近
(中区上幟町、2005.8.7撮影)
流川教会

流川教会
(中区上幟町、2005.8.7撮影)
折り鶴の碑

幟町中学校敷地内・「折り鶴の碑」
(中区上幟町、2005.8.7撮影)

上幟町エリアのもう1つの特徴は、幟町中学校や広島女学院中学校・高等学校などの文教施設が立地していることも挙げられます。流川教会を後にし、栄橋から京橋を越えてくる街路を西しますと、幟町中学校は目の前です。中学校敷地西南角の交差点を北に進み、中学校の門方面へ向かいます。引き続き緑と閑静な住宅地域とによって構成される街路に沿って、「折り鶴の碑」が建立されています。碑の説明文を記した表示には、以下のように記されています。

 
この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴にこめられた平和への願いを、広島の子どもたちが受け止めた証しとして建立されたものです。
 1955年、広島市立幟町中学校一年の佐々木禎子さんは、突然発症した原爆による白血病のため、12歳の短い生涯を閉じました。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて、1958年、広島の平和記念公園に原爆の子の像を建てました。病床で生き抜く希望を折り鶴に託したサダコの物語は、やがて国の内外に広がり、多くの折り鶴が広島に届けられるようになりました。
 それら折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。そして、禎子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意思をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。

2000年3月 広島市立幟町中学校 生徒会



平和を祈るヒロシマの願いを象徴折り鶴と禎子さんの物語は碑の説明のとおり国の内外を問わず広く知られているところです。平和公園の原爆の像と並び、禎子さんが通うはずであった中学校の生徒会によってその敷地につくられていることに深い感慨を覚えました。地域全体の穏やかさ漂う空気とともに、折り鶴の碑が平和を希求する人々の思いを伝えているかのようです。広島の町を歩いていますと、原爆の被害を伝える写真や説明表示などをよく見かけます。それらの表示を目の当たりにするとき、原爆被害の悲惨さとともに平和の大切さを痛感します。これら原爆被害に関する史料と並んで、平和を求めていく強い意志を示したこの「折り鶴の碑」のようなモニュメントが何気ない市街地にが著名なのに対しする京橋は、西国街道の通過する橋として、「京へ続く橋」の意味から毛利輝元によって命名されたといわれています。オリジナルの橋の完成は1591(天正19)年という伝統を持ちます。現在の橋の供用開始は1927(昭和2)年8月。猿猴橋同様、この橋も被爆佇んでいることは、たいへん意義深いものではないかと感じました。都市の喧騒から離れたこのエリアにあることも、この碑が語りかけるアピールの揺ぎ無い心を後押ししているようにさえ感じられるようでした。

幟町中付近

幟町中学校付近の都市景観
(中区上幟町、2005.8.7撮影)
縮景園・跨虹橋

縮景園・跨虹橋
(中区上幟町、2005.8.7撮影)
縮景園

縮景園と背後の都市景観
(中区上幟町、2005.8.7撮影)
白島通り

白島通り・縮景園前電停付近
(中区上幟町、2005.8.7撮影)

幟町中学校の敷地の西には、縮景園(しゅっけいえん)の緑地が連接します。この都市の中の庭園は、1620(元和6)年に当時の広島藩主浅野長晟(ながあきら)によって造営が始められたもので、あまたの佳景をまとめ縮めて表現するとの趣旨から、「縮景園」の名が当てられたものであるとか、あるいは中国杭州の西湖を模して縮景したものであるためとか伝えられているものであるとのことです。庭園内を散策しますと、中央に配された池(濯纓池;たくえいち)を軸として山や渓流、橋などが見事に配置されているようすを美しく眺めることができます。池を跨ぐアーチ状の橋(跨虹橋;ここうきょう)から、その豊かな庭園美を眺望しました。庭園の北は京橋川によって画されていまして、庭園からもその流を望むことができます。その流を望む高まりの一角には、原爆死没者の慰霊碑が建立されていました。あの日、江戸時代以降の美観を保ってきたこの庭園も、惨禍の例外足りえることはできませんでした。明治以降浅野家の別邸として存続し、広島県に寄付された後も「泉邸(せんてい)」の通称で市民に親しまれた庭園も甚大な被害を受け、ここに逃げ込んだ多くの被爆者も満足な治療を受けることができずに息絶え、園内に埋葬されました。慰霊碑は、一枚の写真を手がかりに1987(昭和62))年7月に原爆被害者のご遺体が発見されたことから、その霊を慰めるために築かれたものであるそうです。戦後庭園の復興が進められ、清風館、明月亭などの亭館も復元されて、今日、私たちは、往時の美しさそのままのお庭を鑑賞することができるわけです。

濯纓池を望む高台から庭園を眺めますと、豊かな緑のシルエットに続いて、かつて借景として造園された己斐の山々に代わって、高層建築物に充填された現代の広島の町が背景に広がっていました。そして、足元には背後の木々の合間からたおやかな京橋川の流れも穏やかに眺められます。縮景園の西は電車通りとなっている白島通りとなり、繁華街から官庁街へと連なる、地方中枢都市たる都市景観が力強く展開していきます。そのパワフルな広島の趨勢の中にあって、静かな住環境の只中にある上幟町エリアは、原爆の被害から立ち上がり成長を続けた広島の町の凄みを感じさせるとともに、その礎にあった多くの人々の犠牲や汗、そして平和への願いに思いをはせることができる場所であるようにも思われました。

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