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HIROSHIMA REVIEW

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#8 八丁堀から本通へ 〜広島城下町のメインストリート〜

白島電停を出発した広電は、颯爽とした都市の中を突き抜ける白島通りを進み、八丁堀へと到達しました。広電の白島線が戦後にルートを変更したことは前項にてお話しました。当初は現在の電車通りから見て一筋西の街路を電車が走っていました。この最初の市電のルートは広島城の外濠を埋めて生み出されました。現在「相生通り」となっている電車通りも外濠の一部でした。外濠の幅が八丁(およそ870メートル)あったことから、これらの堀の交わる頂点周辺は、自然に「八丁堀」と呼び慣わされ、付近の町名へと発展しました。交差点東に立地しているUFJ銀行前の歩道には、「広島城八丁堀外濠跡」の石碑が建てられています。外濠の埋め立てにより路面電車が開通したのは1912(大正元)年11月。広島駅前から紙屋町を経由し相生橋(現在の原爆ドーム前)までの路線と、紙屋町から鷹野橋を経て御幸橋(西詰の現在の電停)までの路線とともに初代の路線として開業したのが、この八丁堀から分かれて白島へと到達した白島線でした。路面電車の開通により八丁堀は広島市街地の中心としての拠点性を格段に向上させ、城下町時代からのメインストリートであった西国街道沿いの市街地とともに、広島を代表する繁華街としての階段を上っていきました。

現在の八丁堀は、1929(昭和4)年に広島初の百貨店として創業した福屋をはじめ、天満屋や三越といったデパートが集積する広島の一大繁華街の1つとして高層建築物の連続するエリアとなっています。相生通りを広島電鉄本線の電車がひっきりなしに通過し、交差点の東西に設置された電停へは次々と到着する電車がたくさんの乗降客を受け入れていました。アーケード状の屋根がつけられた交差点周辺の街路は多くの人々が闊歩していまして、通りを流れる車両の多さもあいまって、今日の広島市街地の趨勢の一端を垣間見せていました。背の高い建造物が広幅員の街路に面して立ち並ぶ風景は壮観の一言ですね。八丁堀地域の高層建築物群の中を歩きながら、東急ハンズ前を通過し、立町電停の交差点から南へと折れました。付近は繁華であるのみならず、業務系のビルも多く立地していまして、立町周辺は金融関連の支店が集積していることが印象的でした。広域中心都市の業務核としてのインパクトも絶大なものであることを実感します。

八丁堀

八丁堀交差点・南方向
(中区八丁堀、2005.8.7撮影)
八丁堀

八丁堀交差点付近、相生通り
(中区八丁堀、2005.8.7撮影)
立町電停付近

立町電停より八丁堀の町並みを望む(東方向)
(中区八丁堀/立町、2005.8.7撮影)
立町電停付近

立町電停より西方向を望む
(中区立町/八丁堀、2005.8.7撮影)

本通は、大きなアーケードの下、さらに多くの人々が行き来しており活気のある繁華街であることが実感として感じられました。半透明の天蓋からは夏の日差しがやわらかに透過してきて、商店街を行き交う人々を穏やかに包み込みます。本通は広島が城下町として整備されて以来より、城下町の目抜き通りとしての位置を占め続けてきた伝統ある繁華街です。そのルートはかつての西国街道の道筋を踏襲しています。広島パルコ前から福屋の西へとアルファベットのLの字型に連なる「金座商店街」とともに、一体的な繁華街を形成しています。金座の名前は、福屋が創業した1929(昭和4)年、当時の商店主が東京の銀座を越える商店街にしようと命名したものであるのだそうです。以後、金座〜本通は繁華街として整備が進められ、通りには当時としてはモダンであった「すずらん灯」が輝き、多くの人々を惹きつけていたのだそうです。その後戦時色が強まるにつれて街灯は供出されてまちは光を失い、そして原爆による惨禍により、城下町の一大目抜き通りは一瞬にして灰燼に帰してしまうこととなります・・・。

戦後本通は人々のたゆまぬ努力によって目覚しく復興し、1952(昭和27)年には町の美観確保と防災性の向上のためいち早く電柱を撤去、そして1954(昭和29)年には半年あまりの工期と5,400万円という総工費をかけ、西日本最大といわれたアーケード街を作り上げるにまで至りました。翌1950(昭和30)年2月に積雪によるアーケードの倒壊というアクシデントを乗り越えて復活したアーケード街は、プロ野球・広島東洋カープの優勝パレード(1975年;昭和50年)などをはじめ、広島に暮らす多くの人々の姿を見守りながら、今日を迎えています。その原動力となったのは、広島を愛する商店街の並々ならぬ努力と、やはりこの町を愛し、支え続けてきた多くの市民であることは言うまでもないことでしょう。そのような町の生い立ちを思いますと、今目の前に見ている、活気に満ち溢れている商店街の姿は、実に頼もしくもあり、また尊くもあるように感じられます。広島県内の物産と観光情報とが一堂に集まる「ひろしま夢ぷらざ」も、本通にあります。広島県内の各自治体の観光情報や出版物を閲覧・入手できるほか、各地のお土産品や産直農産物、名産品などが展示・販売されていることもあり、地元の人々をはじめ、多くの観光客の集まる拠点として機能しています。

本通

本通の景観
(中区本通、2005.8.7撮影)
本通のアーケード

本通のアーケード
(中区本通、2005.8.7撮影)
紙屋町方面

鯉城通り・紙屋町方面を望む
(中区大手町二丁目/袋町、2005.8.7撮影)
鷹野橋方面

鯉城通り・鷹野橋方面を望む
(中区袋町/大手町二丁目、2005.8.7撮影)

さらに本通を西へ進みますと、ベーカリーとして人気の「アンデルセン」のモダンな店舗へと至ります。この建物はかつて帝国銀行広島支店として使用されてきたもので、被爆の経験を乗り越えて、現在に至っている貴重な「被爆建物」の1つです。アンデルセンの東の交差点を南へ行きますと、袋町小学校があります。爆心地から至近の場所にあり甚大な被害を受けたものの被爆当時鉄筋コンクリート造りであった校舎は外観は残りました。残された校舎は避難場所・救護所として使用されたほか、家族や知人の消息を案じた人々が壁面にメッセージを書き残した場所として知られます。この被爆した校舎の一部は、現在「広島市立袋町小学校平和資料館」として保存され、壁に残された伝言や被爆当時の炭化した木煉瓦、そして爆風で歪んだ地下の鉄製のドアなどを永久に保存し、展示する場となっています。小学校からさらに西に行った鯉城通り沿いには、やはり被爆建物である「旧日本銀行広島支店」のモダンな建物も残されています。活気のある商店街の中にあって、被爆当時の記憶を今にとどめる事物の存在は、目覚しい復興を遂げてまちを牽引してきた商店街とともに、最大級の敬意をもって接しなければならないものではないかと心より思います。

広島電鉄宇品線の線路が颯爽と伸びる鯉城通り沿線もまた、たくさんの高層建築物が途切れなく立ち並んでおりまして、中心業務地区の一翼を担うエリアを構成しています。通りに架けられた歩道橋から町を俯瞰しました。南の彼方には地上21階、最後部139メートルというサイズを誇るNTTドコモ中国ビルが燦然と屹立しているのが見えます。北へ目をやりますと、八丁堀と並ぶ広島市街地の中心・結節点として機能している紙屋町の巨大な町並みが目に飛び込んできます。NTT基町クレドのビルをはじめとした背の高いビル群が連続して、広島城付近の緑や郊外の丘陵の緑へとつながっていきます。本通商店街は鯉城通りを越えて旧西国街道筋を西へ続いていきます。そして、元安川へ行き着き、元安橋を経て平和公園内へと至ります。

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