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HIROSHIMA REVIEW

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#9 古市から祇園へ 〜雲石路に栄えた町並み〜

 2007年9月4日、約2年ぶりに広島を訪れました。広電で原爆ドーム前に行き、平和公園へ。広島に来たときは、必ずまず平和公園へ行くことにしております。平和への祈り、そしてその思いを確認しながら、この日のフィールドワークをスタートさせました。平和大通りを歩きながら鯉城通りを北して、アストラムラインの本通駅に入り、さらに北へと向かいました。アストラムラインはほどなく地上に出て、橋上を行く列車となります。颯爽とした印象の幹線道路である祇園新道(国道54号線の新道)の上から、太田川河谷西側の緩やかな丘陵地を眺めながら、太田川、そして古川を渡河します。アストラムラインが祇園新道から分かれて最初の駅である古市駅で下車、アストラムラインのしなやかな橋脚の景観を一瞥しながら、歩を進めます。駅から西方向に安川緑道は、1965(昭和40)年に安川の河道の付け替えにより廃川となった旧河川敷が緑道として整備されたものであるようです。

 駅を東に進み、県道矢口安古市線(459号線)の交差点より南に入ります。付近は山陽道の広島インターチェンジなどを間近にした立地ながらも、比較的産業的な土地利用は控えめで、どちらかと言えば中高層のマンションも混じった低層の住宅地域といった雰囲気です。このルートは、「雲石路(出雲街道と石見街道とを総称した呼び名)」を継承する道筋にあたるようです。広島市街地・堺町で西国街道から分岐した雲石路は、太田川中流域の要衝・可部まではルートが重複していまして、可部より出雲方面(吉田・三次を経由して出雲平野へ)と石見方面(益田方面)に街道が分岐しました。広島城下と可部との間で、街道筋に沿って街村的な町場を形成していたのが、古市と祇園です。明治期や大正期の広島市周辺の地形図を見ていて、早くから町場が形成されていたこのふたつのエリアの今を確認したい。これがフィールドワークでこの地を訪れたきっかけでした。

古市駅

アストラムライン古市駅から北西方向
(安佐南区中須一丁目、2007.9.4撮影)
古市

古市の町並み
(安佐南区古市一/二丁目、2007.9.4撮影)
古市

古市の町並み
(安佐南区古市一/二丁目、2007.9.4撮影)
JR古市橋駅

JR古市橋駅遠景
(安佐南区古市三丁目、2007.9.4撮影)

 古市は、近世より麻の生産で栄えた町場であったようです。古市についてインターネットで調べていますと、「麻の古市」として全国に知られたとする史実に頻繁に出会うことができます。広島市サイトの説明を引用しますと、

 
麻づくりが盛んだった明治から大正にかけて、古市の町には煮扱屋(にこぎや)と呼ばれる麻の繊維工場が50軒ほどありました。古川では繊維の「けば」をこそぎ落とす作業が行われており、旧街道に沿って河原へ通じる石畳や麻製品が保管された蔵が残っています。

とのことで、麻の生産地を後背地に持ち、麻糸の生産に適した河川に面するという立地特性が、古市の町場が構成された主だった要因のひとつであることが理解されます。旧街道筋は車線の区別も無いほどの幅員で、行過ぎる車両も少なめです。しかしながら、道路はバス通りとなっていまして、「上古市」や「中古市」、「下古市」といった歴史を感じさせるバス停名の存在からも、このルートが古くからの主要道路であったことが知られます。歴史を遡ると、このルートが国道であった時代もあったようです。西側に現国道54号がバイパスとして作られて後に国道がそちらへ変遷し、さらにモータリゼーションに対応した本格的なバイパス路線としての祇園新道が古川の左岸を貫通するという変化の中で、オリジナルの幹線道路はいつしか穏やかな住宅地域の中を進む道路へとその性格を変えました。道路周辺は純然たる住宅地域の様相で、一部に町屋を髣髴とさせる家並みや土蔵などが残されて、古市の歴史をかすかに伝えているかのようです。安佐南区役所に近づくにつれて町並みはその密度を増して、最寄品を扱う近隣商店街としての雰囲気がより濃厚になります。国道を渡った先にはJR古市橋駅。駅名は前述の安川の廃川により1995(平成7)年2月にその役割を終えたコンクリート橋の名前にちなむものであることが、「古市橋今昔」と題されたモニュメントに記載されていました。

安神社

安神社
(安佐南区祇園二丁目、2007.9.4撮影)
祇園・常夜燈

祇園・常夜燈
(安佐南区祇園二丁目、2007.9.4撮影)
祇園

祇園の町並み
(安佐南区祇園二丁目、2007.9.4撮影)
祇園の町屋

祇園の町屋
(安佐南区祇園二丁目、2007.9.4撮影)

 古市橋駅前から南へ、地元では古市における県道459号線と連接して「旧道」と呼称される県道古市広島線(277号線)を南へ進みます。雲石路で古市と並んで町場が形成されていた祇園は、現在では古市と同様に、広島市街地に近接したベッドタウン的な住宅地域となっているようです。やはり広島市のサイトによる祇園の生い立ちを紹介しますと、

 
平安時代末期には厳島神社領荘園の倉敷地となり、中世に武田氏により銀山城の東麓に、新羅・熊岡・日吉の各社や仏護寺(現在の広島別院)などが建てられました。
 恵美須神社を中心に町屋が並び、西の裏通りは武田氏時代、東の裏通りは毛利氏時代のものです。近世には沼田郡に属し、北下安村の雲石路に沿って成立し、安神社の門前町として栄え、郡本(代官所在地)が置かれました。


とのことで、近在の中心地として古市よりもやや規模の大きい市街地が形成されてきたようです。

 古市橋駅を出てしばらくは緑道となっている旧安川の堤防上を旧道が進んでいるような印象で、道路よりも沿線のほうが土地が低い状態でした。市街地中心部に近づくにつれてマンションなどの中高層の建築物も増えてまいりまして、それに比例するように狭い道路を通行する車両の交通量も増大してきます。上掲文中にも登場する安神社は、別名祇園社といい、地域で「おぎおんさん」と親しまれるとともに、地名の起源ともなっている由緒あるお社です。旧道に面して家々の谷間に常夜灯もあって、旧街道筋の雰囲気を盛り上げます。ここからJR下祇園駅入口までの間には、うだつも見える重厚な町屋建築が集まっています。中高層のマンション群に囲まれながら、切れ間無く行き交う自動車の群れに面しながらも、祇園の町並みは豊かな面持ちを見せていました。安神社門前の由緒書きには鎮座地として「安佐郡祇園町」の名前が見えました。この表示板の文章が書かれた(昭和47(1972)年7月)の約1か月後の同年8月27日に、旧祇園町は広島市に編入されています。この頃を画期のひとつとして、広島市街地の郊外化が進行することとなるわけで、この表示板と町屋の景観、そして写真を撮影するタイミングさえなかなか訪れないほどの自動車の列に接し、1970年代中葉以降のこの地域の都市化がどのようなものであったかが想像されました。

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