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HIROSHIMA REVIEW

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#10 横川界隈 〜交通の要衝の挑戦〜

 JR下祇園駅から可部線を利用し、横川駅まで移動しました。線区上は可部線の始発駅となっている横川駅も、現在では可部線のすべての列車は一駅先の広島駅まで乗り入れています。降り立った駅前広場は、現代的なターミナルとして整えられていまして、路面電車の発着点としての拠点性の高さを感じさせました。コンパクトながらも路面が煉瓦調の落ち着いた色彩でまとめられたバスプール・タクシープールは機能的に配置されて、駅の南側を貫通する城北通りの喧騒をあまり感じさせません。駅ビルのファサードは、歩行者通路に沿って波形の屋根のついたアーケードが取り巻いていまして、その深緑の色合いによって現代的な駅ビルと広場の緑との調和がうまく図られているような印象です。城北通りを横断して駅前広場にまで乗り入れている路面電車乗り場までもそのアーケードの下を段差無く進むことができるなど、交通結節点としての利便性も申し分ありません。

 横川は、1905(明治38)年に、わずか9か月間の運行であったものの、日本発の国産乗合バスが発着した場所であるそうで、広島における交通の要衝のひとつとして成長してきた歴史を持ちます。雲石路が広島城下に至る手前に発達した町場を基礎として、鉄道駅の開業により交通の要路としての特質がいっそう顕著となり、1929(昭和4)年に、広島市に編入(安佐郡三篠町)された頃までには、広島県北部地域へ向かう交通路の収束地点たる基盤は揺るぎないものになっていました。

横川駅前

横川駅前の景観
(西区横川町三丁目、2007.9.4撮影)
駅前広場

横川駅前広場
(西区横川町三丁目、2007.9.4撮影)
商店街

横川くろすろーど
(西区横川町三丁目、2007.9.4撮影)
電停

広電横川駅電停
(西区横川町三丁目、2007.9.4撮影)

 平日の昼下がりの駅前は、人や車両がひっきりなしに往来していまして、ここが活気ある場所であることを実感させました。広場西にある商業施設「フレスタ」は、小ぢんまりとした施設ながらも飲食店や雑貨店などはそれなりの賑わいを見せており、一定の集客性のあるエリアであることが窺えました。駅から東側は、かつての雲石路を継承した県道277号線(この道筋が地元では「旧道」と呼称されることは先にお話しました)に沿って、古くからの横川の商業地が形成されていまして、駅前広場のリニューアルに併せてこちらの人通りも少なくないように感じられました。

 横川の交通結節点としての地位は時代により変容しているようで、エリアの中心性は必ずしも磐石ではなかったようです。高度経済成長期以降、広島都心は中国地方の中枢管理機能を強化して成長する中で目覚しい成長を見せました。その動きと期を一にするように、横川駅を経由していた多くのバス路線は都心へ直通するようになり、前述のとおり可部線の列車も広島駅へ直通するように変化しました。この郊外と都心とを結ぶ結節機能の相対的な弱体化を受け、路面電車も都心へ直通する系統が廃され、江波行きのみが発着するようになり、横川の交通体系上の拠点性は大きく揺らぐこととなります。庶民的な活力に溢れていた商店街には中高層のマンションが混在するようになり、横川の都市近郊の近隣商業地としての性格は弱まり、都心に近接した住宅地域化が顕著となっていきました。地元商店街のサイトの記述を参考にしますと、新交通システム「アストラムライン」開業(1994(平成6)年)後は郊外から横川に接続するバス便がさらに削減され、横川はさらなる打撃を受けることとなったのだそうです。

横川駅

JR横川駅遠景
(西区横川町三丁目、2007.9.4撮影)
横川駅前

横川駅前・電車通りの景観
(西区横川町三丁目、2007.9.4撮影)
横川

横川本通り商店街南入口
(西区横川町一丁目、2007.9.4撮影)
本川

本川の景観(基町アパートを望む)
(西区横川町一丁目、2007.9.4撮影)

 駅前を後にして、電車通りを進みますと、商業ビルが多くを占める中に、中高層もマンションもまた多く立地していまして、その景観が横川エリアがたどった道筋を暗に示しているように感じられました。横川が現在の活気を取り戻し、交通の要衝としての基盤を取り戻す道筋に向かい始めた端緒は、行政による「地域の人達と一緒に行う祭りをしませんか」という提案であったそうで、このことがきっかけとなり、横川の昔ながらの情緒と人間同士のつながりが最大限生かされた「横川ふしぎ市」がスタートしました。2003年には前述の駅前広場の整備が実施され、現代的な町並みと昔ながらの懐かしい風情とが重なり合う新たな魅力が創出され、路面電車の都心直行便(7系統)の復活も後押しして、横川駅の利用者は再び増加傾向を見せるようになったのだそうです。横川は交通の要衝としてきら星のごとく輝きを見せていた往時の賑わいを目指し、今後も更なる邁進を見せていくこととなるのでしょうか。

 横川の町並みは、天満川に架かる横川橋でその南端へ突き当たります。橋のたもとには、江戸時代の末期に横川在住の商人が、繁栄を祈願し創建し胡子社としたことがはじまりという、横川胡子神社がひっそりと佇んでいました。現在は太田川(本川)と天満川が分岐するのみの横川も、かつては現在の横川新町方面へ流れる支流(福島川)がさらに分流していました。太田川放水路の完成(1967(昭和42)年)に伴い、福島川の上流部分は埋め立てられました。南北方向に流れる支流が多い中にあって、この福島川が東西方向に流れていたことから「横川」と呼ばれていたそうで、これが地名の由来であるようです。横川胡子神社の境内付近からは、穏やかな本川や天満川の流れをゆるやかに眺望することができます。対岸は基町の高層アパート群を介して都心方向の建築物群が展開します。穏やかな景観と地域性に、現代都市的な要素が重なる横川を後にし、横川橋から寺町方面へと歩を進めていきました。

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