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尾張・三河探訪


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#1 足助の街並み 〜香嵐渓のほとり、中馬街道の宿場町を歩く〜

 2011年11月26日、午前10時前に到着した香嵐渓は、極上の輝きに包まれていました。矢作川水系巴川の上流、たおやかな奥三河の山々をゆるやかに削る渓谷は、緑から赤への彩りを鮮やかに呈しながら、雲一つない秋空にその明るさを届けていました。涼しい空気の中、木々を通して差し込む木漏れ日がよりいっそう紅葉の透明感を引き立てて、自然の美しさ、尊さを表現しているように感じられます。飯盛山を囲むように流れる巴川に沿って、待月橋(たいげつきょう)から香積寺(こうじゃくじ)までの一帯がたくさんのカエデやスギなどに覆われています。1634(寛永11)年、香積寺の僧・三栄が植えたことに始まるとされる香嵐渓のカエデは、その後の地域による植栽を経て、今日の姿になったのだそうです。東海地方でも随一の紅葉の名所として知られる香嵐渓は、大変多くの人出でにぎわっていました。

香嵐渓

香嵐渓
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
香嵐渓

香嵐渓の紅葉
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
香積寺

香積寺
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
香積寺

香積寺境内
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
紅葉

息をのむ紅葉
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
香積寺参道

香積寺参道のカエデ前
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)

 香嵐渓は上述の巴川と足助川の合流点に発達した渓流です。ほど近い場所に飯田街道沿いの宿場町・足助の街並みが広がっています。現在国道153号となっている道筋は古くから尾張・三河地域と信州を結ぶ交易ルートとして栄え、藩政期には塩や海産物を内陸へ運ぶいわゆる「塩の道」として機能していました。現在では飯田街道の名称が主流ですが、三州街道や伊那街道といった呼び名のほか、馬で荷物を運ぶ中馬(ちゅうま)と呼ばれる輸送が行われたことから中馬街道とも呼ばれていたようです。足助の宿場は、舟運から陸路運搬されてきた塩が中馬に荷直しされる中継地として栄えた場所です。天保年間(1830〜43)には塩問屋が14軒あったといわれています。足助川の合流点付近、巴川が大きく蛇行する内側、足助八幡宮や市役所支所などが立地する宮町地区から東へ、足助川に沿って街並みが展開していきます。2011(平成23)年、足助は国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の指定を受けています。
 
 国道が渡る巴橋のたもと、香嵐渓交差点には石造りの常夜燈があって、歴史ある宿場町の趣を今に伝えています。国道の北側に並行する東西の通りが旧街道筋で、「西町」と呼ばれています。宿場町の往時を伝える宿屋をはじめとした昔ながらの街並みが続いています。宿場は西町のはずれで北に折れて足助川の右岸側へと続いていきます。辻には「左ぜんこう寺 右ほうらい寺」と刻まれた道標があり、中馬街道と遠州街道(鳳来寺道)との分岐点を示していました。

常夜燈

常夜燈
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
旅籠

旅籠の家並
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
マンリン小路

マンリン小路
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
足助の街並み

足助の街並み(新町・本町付近)
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)

 足助川を渡った先も、かつての宿場町の趨勢をつぶさに伝える街並みが連続しています。家並みの背後には豊かな森をまとった山々がやさしい姿を見せていまして、つつましやかな町場の借景としての風情を加えています。建物の棟(屋根の頂部)と直角の面(妻側)に入り口のある妻入りと、胸と並行の面(平側)に入り口のある平入りの双方が存在しているのも特徴です。旧旅籠の三嶋屋や商家の田口家など、大規模ながら簡素なしつらえが奥ゆかしい平入の建物もあって、藩政期以降の伝統を持つ中心地としての凄みも加持させます。街道筋は足助川の段丘に沿ってカーブを描いたり、鉤の手状になったりしながら、「新町」、「本町」、「田町」とつながっていきます。宗恩寺へと続く「マンリン小路」も、情緒ある風景が印象的です。

 足助陣屋跡に建つ愛知県の施設(足助農林業振興センター)を一瞥し、田町の豊かな街並みを抜けて、稲荷神社の参道に立つ大鳥居の先、新田町へと進みます。このあたりの街並みは明治期に作られた「田町新道」と呼ばれる道筋です。街並みの裏手の観音山からは、鮮やかな紅葉とゆるやかな足助川の流れに寄り添うような足助の街並みを美しく望むことができました。この奥三河の山中にこれほどまでの町場が形成されたのは、足助の町が地域の中心地として以上に街道を通じた交易の拠点として、ここが重要な場所であったことを改めて実感させる風景でもあったように思います。


三嶋屋

三嶋屋
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
田町の街並み

田町の街並み
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
観音山から望む足助の街並み

観音山から望む足助の街並み
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)
足助川沿いの景観

足助川沿いの景観
(豊田市足助町、2011.11.26撮影)

 藩政期から近代にかけても物流の中継地としての伝統の上に存立してきたこの街の歴史は、この密度の高い家並みに大きな軒を連ねる商家が見せる景観そのものに濃厚に感じることができます。1775(安永4)年に大火があり、延焼を防ぐために漆喰で軒先まで塗り固められた「塗籠造り」が施されたことも、そうした町場としての重要性や各商家の財力を物語っているように思います。長らく地域の中心として存立してきた足助は、その後の時の流れの中で徐々に広域的な中心性を減じていき、現在は合併により豊田市の範域に包摂され、ローカルな小中心として息づいています。香嵐渓方面への帰路は、足助川沿いに石畳で整備された旧道を進みました。川岸に張り出すように造られた街並みもまた風情があります。足助川の流れは本当に清冽で、今も昔も変わらぬ足助の美しさを象徴しているように感じられました。

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