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シリーズ・クローズアップ仙台
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#57 荒浜界隈 〜貞山堀と砂浜のある地域〜 仙台駅前のバスプールから深沼行きのバスに乗車し、若林区役所前や仙台パイパス付近の新興市街地、七郷の田園地帯を眺めながら進みますと、仙台市民にとって最も身近な海水浴場である深沼海岸へと到着します(バス自体の発着点は交通局大学病院前です)。広々とした砂浜と砂丘の展開する風景は実に爽快で、打ち寄せるさざなみの音が弓状に連なる海岸線いっぱいに広がって、仙台港周辺の臨海産業地域のシルエットへと消えていきます。 深沼海岸から南の名取川河口の潟湖である井戸浦にかけては、防風林として植林された松林が美しく広がっています。七ヶ浜半島から福島県相馬市の松川浦付近まで緩やかに続く海岸平野の雰囲気がよく残されたエリアのひとつであるかもしれません。そんな穏やかな海岸に接する場所に、荒浜の集落があります。
荒浜はその名の通り波打ち際の荒れた砂浜というニュアンスを含む地名のようで、海岸の名前となっている「深沼」は浜堤列の間の低湿地に由来するこの地域の別名と考えると自然なような気がいたします。約800戸からなる集落は古くは半漁半農の農村集落的性格が強かったといいます。戦国末期から近世初期にあたる慶長・元和期、越中大学、但馬掃部、土佐十郎右衛門等の武士がこの地域に落ちのびて開墾し、集落をなしたと伝えられているとのことです。 1970年代半ば以降に住宅団地(荒浜新一・二丁目)が形成されたのを境として地域外からの人口流入が進むとともに中心市街地への通勤者が増加し、現在では農業や漁業は主要な生業ではなくなっているようです。しかしながら、集落の景観は、現代風の住宅が大勢を占める中にあっても、その中に木壁や瓦葺きの住宅が立ち並ぶ風景や、自家消費中心と思われるものの、野菜が植えられた畑が点在する様子などといった、昔ながらの農村・漁村の風情を色濃く残していまして、地域を穏やかに包み込む松林の穏やかな佇まいや背後に広がる田園風景もあいまって、たいへんに心を揺さぶられました。訪れたのは9月。海水浴シーズンを終えて初秋を迎えた海岸は訪れる人も少なくて、やがて訪れる喧騒の季節までの間の休息をとっているかのように感じられました。
そして、荒浜地区を特徴づけるもうひとつの事物は、集落を南北に流れる貞山堀(ていざんぼり)でしょうか。穏やかな集落の間をゆったりとたゆたいながら、穏やかな水辺空間を形づくっているこの水路は、仙台藩によって計画され、実行された壮大な一大プロジェクトにより完成をみた歴史を持つ運河です。地図をよくみますと、この運河は海岸に沿って、南は阿武隈川河口から名取川河口、七北田河口を経て松島湾へと至る長大な流路を持つことが見て取れます。全長は約33.4キロメートル。阿武隈川から名取川までの区間(木曳堀)、七北田川河口から塩竈までの区間(舟入堀)、名取川から七北田川までの区間(新堀)の3区間に分けて徐々に開削され、水運により米を江戸に送るための物流ルートとして藩の財政を支えました。新堀の完成は1872(明治5)年で、世紀を超えた大計画であったことを物語っております。東松島市鳴瀬町の野蒜地区には近代的な港湾を建設する計画もあり、貞山堀の水運も生かした物流産業拠点として完成をみたものの、台風による突堤決壊のため大破し、復旧もならずに幻の港と化しました(いわゆる「野蒜築港」)。その後、物流が水運から陸上交通に移り変わるにつれて、堀もまたその本来の役目を終えたという歴史もあります。 貞山堀の名前は、1881(明治14)年に木曳堀、舟入堀、新堀の改修を行った際に、当時の宮城県土木課長・早川智寛氏(後の仙台市長)が政宗の贈り名である「貞山」にちなみ、3つの堀の総称として命名したものであるとのことです。伊達家との深い関わりのあるこの堀の歴史を感じさせます。現在ではのびやかな漁村の顔をした集落を流れる水路は、その水面に仙台藩時代の豊穣の実りを運んだ時代の雰囲気をかすかに宿しながら、緑に溢れた砂丘に寄り添うように、ひっそりと横たわっております。 |
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