Japan Regional Explorerトップ > 地域文・関東甲信越地方 > 点描千葉市とその周辺・目次
点描千葉市とその周辺
←#10(千葉市街地後編)のページへ |
#12(市川編)のページへ→ |
||||||||||||
#11 船橋市の諸地域を歩く 〜海老川に沿った地域の姿〜 千葉市街地のフィールドワークをひとまず終え、荷物をコインロッカーに残したまま次なるフィールドワークに向かいました。JR津田沼駅から新京成電鉄の新津田沼駅へ徒歩で向かい、新京成線三咲駅で下車、この日の2回目の地域散策をスタートさせました。津田沼駅は基本的には習志野市の中心駅としての位置づけにある一方で、パルコの立地する北東方向の市街地は行政的には船橋市域となっています。そんな船橋市は、首都圏の住宅都市化にしたがって人口が増え、それに伴い商工業も集積し、その人口も50万人を超えるまでに成長した地域の中心都市です。そんな現代都市となった船橋も、藩政期は千葉街道と成田御成街道が分岐した宿場町として、また意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)の門前町として町場を形成した歴史を持ち、さらには東京湾奥の穏やかな海に望む漁村的な風景も展開した地域であったようです。 船橋市街地を流れる海老川に架かる海老川橋には、「船橋地名発祥の地」と刻まれたモニュメントがあります。太古、海老川は現在よりも川幅が広く、川に船を並べて浮かべてその上に板を渡して橋となしており、このような形状の橋を「船橋」と呼んだことから船橋の地名が起こったとの説明が一般的であるようです。生い立ちから見ても多様な地域性を見せる船橋市の諸地域を、地名の端緒となった海老川の流れに沿いながら辿ってみようと思います。
三咲駅から西へ、県道を進みます。周辺は梨畑が広がっており、観光農園として経営されている場所も多く見受けられました。二十世紀梨発祥の地である松戸にも近く、また有数の梨生産県である千葉の近郊農業の姿が感じられる風景です。この付近の地名は「二和(ふたわ)」といい、下車した「三咲」とともに、漢数字が入る地名が目に付きます。これは、明治新政府が東京の窮民を救うため千葉県北西部から北東部にかけて存在した「小金牧」や「佐倉牧」(江戸幕府が直営した軍事や輸送目的に馬を肥育させる牧場)を開墾させることになり、その開拓順に初富(はつとみ;鎌ケ谷市)、二和(ふたわ;船橋市)、三咲(みさき;船橋市)、豊四季(とよしき;柏市)、五香(ごこう;松戸市)、六実(むつみ;松戸市)、七栄 (ななえ;富里市)、八街(やちまた;八街市)、九美上(くみあげ;香取市)、十倉(とくら;富里市)、十余一(とよいち;白井市)、十余二(とよふた;柏市)、十余三(とよみ;成田市、多古町)と順次命名されたことによるものです。南へ折れるをそれ、穏やかな畑や住宅地が展開する地域を進みますと、星影神社が佇んでいました。二和地区の鎮守です。赤いトタン葺のお社が祀られた小ぢんまりとした境内には、二和開墾に係る記念石碑が建てられておりまして、開墾時の辛苦が垣間見られるようでありました。 神社を後にして南に進み、穏やかな住宅地と畑とが混在するエリアを進みますと、二和小学校の南に高さ2メートルほどの連続した土塁が残されいるのが分かります。これは前述の「小金牧」のひとつ「下野牧」の野馬土手の跡であるとのことでした。付近には滝不動尊が祀られて、緑穏やかな境内には本尊の不動明王が出土したところから水が湧き、滝になったと伝えられる水流があります。滝からの流れは弁天堂が鎮座する池へとつながり、木々に覆われた静かな空間をせせらぎが際立たせます。豊かな森を抜けた先は、星影神社に向かう際一度別れた県道に面していまして、周囲はマンションも点在する住宅地で、バス通りともなっている県道は多くの自動車で溢れる、現代の都市近郊の態様が展開されていました。滝不動の滝は、海老川の源流となっています。
海老川は船橋市街地北部の低い台地を刻みながら、いわゆる「谷津」と呼ばれる微谷状の低地を形成しつつ沿岸部に向けて南流していきます。東葉高速鉄道の鉄路のやや北、八栄橋より下流の流れは洪水対策のために改修が加えられているようで、いよいよ船橋市街地を流下する現代都市の中の水路としての形態を帯びるようになってまいります。滝不動南より船橋駅行きのバスに乗り、その風景を概観しました。駅に近づくにつれて都市の密度が一気に増して、首都圏における商業中心核のひとつとして成長した船橋駅前の趨勢を感じさせました。JR船橋駅を抜け、京成船橋駅を経て南の本町通りに抜けるまでの一帯はデパートや多くの中低層の商業ビルに飲食店や店舗が入った高密な市街地が形成されていまして、人の流れも多く、たいへんな活気でした。本町通り角には、フィールドワーク当時商業施設部分オープンに向けて最終段階にあったと思われる「ルナパーク船橋」のカラフルなファサードのビルも印象に残りました。 やはり中低層のオフィスビルや商業系ビルなどが立ち並ぶ本町通りを東へ、海老側方面へと進みました。東進するにつれて昔ながらの町屋造りの商店も混じるようになって、この通りが船橋における伝統的な商店街のひとつであることが実感されます。海老川に架かる海老川橋には「船橋地名発祥の地碑」が設けられていることは先にご紹介しました。欄干には船の舳先をイメージしたモニュメントもせり出していまして、海とのかかわりにおいて歩みを始めた船橋の地域性をアピールしているかのようです。京成線の高架下をくぐり、大神宮下の交差点に接続する石段を登って、船橋大神宮へ。小高い丘にある境内には、1880(明治13)年に建設された木製の灯明台があります。当時の最新設備を備え、6マイル(約10キロメートル)先まで光が届いたという灯明台は、東京湾で操業する漁師たちなどにとって格好の目印であったそうです。現在は周囲は完全に都市化し、埋め立てによって海岸線も遠く離れて往時の役割を果たすことはなく、境内のみずみずしい緑に囲まれながら、静かに船橋の地域の変遷を見守っているといった印象です。
大神宮訪問の後は、本町通りの一本北の通りに面する住宅地域内に佇む「船橋御殿跡と東照宮(市指定史跡、徳川家康が狩猟に出かける際に使用された宿泊や休憩施設の跡)」を一瞥し、海老川畔に戻って、現代的な歩道として整備されたルートを河口に向かってたどりました。周囲は穏やかな住宅街といった風情で、なめらかにたゆたう海老川の川面の姿がそうした静かさをよりいっそう強調しているように感じられました。船橋橋まで来ますと、川岸には小型の漁船や釣り船などが多くもやってあるのが確認できるようになってきます。河口を横切る京葉道路や、道路がシェルターで覆われているため見えないもののその向こうにある一大商業施設「ららぽーと」などといった、大都市圏近傍の都市地域の景観の中にあって、今も昔も船橋の諸地域を潤してきた海老川の流れと船が並んで浮かぶ風景が重なる姿は、この地域が多くの人々にとって変わらぬ、かけがえのない生活の舞台であることを実感させました。 参考文献 千葉地理学会(2000)『房総の地域ウォッチング』大明堂 産経新聞社千葉総局(1998)『房総発見100』崙書房出版 千葉県高等学校教育研究会歴史部会(2002)『千葉県の歴史散歩』山川出版社 |
|||||||||||||
←#10(千葉市街地後編)のページへ |
#12(市川編)のページへ→ |
||||||||||||
このページのトップへもどる 点描千葉市とその周辺目次ページへもどる ホームページのトップへもどる |
|||||||||||||
(C)YSK(Y.Takada)2008 Ryomo Region,JAPAN |