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中国山地を見つめて

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#3 谷口の要衝、可部の現在(いま)

2003年11月30日、ついにJR可部線可部〜三段峡間が廃止され、可部線は名実共に「可部行き」の路線となりました。JR可部線は、純粋に広島市の都心と北部の中心的な市街地である可部とを結ぶ路線となったわけですが、この可部に広島都市圏からの都市化の波が届いてから、30年前後の時間しか経過していないようです。自治体としての可部町が広島市に合併したのは、1972年4月1日のことで、その後広島市は1980年4月1日に政令指定都市に移行するわけですが、可部を含む安佐北区の人口は、1975年には約8万人であったものが、その25年後の2000年には15万人超の人口規模へと成長し、可部を含む地域の都市化がどのようなものであったかを暗示させます。かつての可部線は、可部を境にそれより南は本数が多く、そこから三段峡までは極端に本数の少ない陣容となっていました。可部が都市機能的にも広島都市圏内のローカル中心として完全に組み込まれたことを示していますね。しかし、この都市化の流れは、長い町としての可部の歴史の中でほんの最近の出来事であるに過ぎません。太田川中流域の交通の要衝として、木材などの物資の中継基地として下流の一大中心地である広島との影響を緩やかに受けながらも、独立した中心性を持つ都邑でした。2003年8月31日、三次から瀬戸内方向へ移動する途中、都市化の波に洗われたかつての中心地である可部がどのような町なのか見てみたくて、中国自動車道から広島自動車道へ入り、広島北インターチェンジから国道191号線に入り、可部の町へ向かいました。


丘陵地に開発された団地

丘陵地に開発された団地
(安佐北区亀山七丁目付近、2003.8.31撮影)
可部の町並み

可部の町並み
(安佐北区可部三丁目、2003.8.31撮影)
可部の町並み、鉤の手

可部の町並み、鉤の手
(安佐北区可部三丁目、2003.8.31撮影)
可部の町並みと通過する車両

可部の町並みと通過する車両
(安佐北区可部三丁目、2003.8.31撮影)

深い河谷が刻まれるたおやかな山あいに、可部グリーンライフ、勝木台、虹山団地などの宅地が開かれているのが目に入ります。このあたりから程無い地点の中国道を通過している時は、急斜面の中のわずかな緩斜面に猫の額ほどの集落が開かれているのを見ましたが、戦後日本の都市化の営力は、時として計り知れない爆発力でもって自然に挑んでいくものなのか、とも思ってしまいます。「191分かれ」と記された十字路から可部の町のもともとのメインストリートを形成する街路へと進みます。車がすれ違うのがやっとの幅の街路ですが、意外に通過する車両が多く、西側に国道54号線の幹線がありながら、次から次へ自動車が行き過ぎます。可部駅へと入る県道はさらに狭く、駅前はわずかに駐車スペースとタクシーの駐車できるスペースがある程度でした。その間の街路の両側の町並みは、うだつの上がる家、重厚な瓦と渋みのある柱に白壁が奥ゆかしい家並み、醸造業の老舗らしきノスタルジックな町並みが並んでいまして、可部の町の中心地としての往時を感じるものでした。可部の駅前でレンタカーを止めさせていただいて、わずかな間の散策に出かけました。メインの街路に面した家々は、前述したとおりの昔ながらのファサードが随所に残る穏やかな顔立ちをしている一方、一歩路地裏に入ると、更に狭い路地に密集した家々が連なっていまして、また違った趣を呈していました。車窓から眺めた醤油醸造所は、農林水産大臣賞の栄誉に輝いた老舗のようでした。街路が狭いのは、川に向かう集散地としての町の機能を反映しているのかもしれません。

可部郵便局北の交差点から東へ入るあたりの可部の旧道は、北から東、そして南へ折れるクランクに曲がっていまして、この鉤の手の北東隅には、小さなお社が祀られていました。電柱の影には道標の石碑があり、「右へ三次ヲ経テ出雲路へ通ズ」と刻まれていました。中国山地山間の三次、江の川の水運を経ながら出雲路を見据えたロケーションを軸として、可部の町が存立してきたことを改めて実感しました。


路地に入ったあたりの景観

路地に入ったあたりの景観
(安佐北区可部二丁目、2003.8.31撮影)
国道54号線沿いの景観

国道54号線沿いの景観
(安佐北区可部南五丁目付近、2003.8.31撮影)

駅前に長く自動車を止めているのも悪いので、元来た道を引き返しながら、慎ましく輝く町並みを楽しみました。相変わらず車の往来が盛んで、心無い車両からは、クラクションの罵声が浴びせられます。そんなに邪魔になる位置を歩いていたわけではないのに。可部駅で車に乗り換え、県道可部停車場線を経て可部線の踏切を越えると、国道54号線の幹線道路に至ります。付近はロードサイド型の店舗が集積する郊外型の商業地域の観でして、交通量もかなり多くなっていました。これより広島市街地中心部の紙屋町まで、この道路は沿線に都市化した地域を抱えながら進みます。中筋からは頭上にアストラムラインが重なります。自ら自動車を操っていながら言える立場ではないのかもしれませんが、モータリゼーションが町並みや生活空間にどのような影響を及ぼしているのかをまざまざと実感したような気がいたします。歴史の古い町並みをいかにまちづくりにいかしていけるか、多くの課題を感じました。                                      

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