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中国山地を見つめて
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#2 三次散歩 〜ふたつの町のあわいを歩く〜 JR三次駅前から、町歩きをはじめます。地図を見てまず気づくことは、三次駅があり、三次市役所があり、三次郵便局があり、とにかく三次市の主要な施設が立地する、この三次市の中心市街地と目されるエリア一帯が、「十日市」という住居表示で埋め尽くされていることです。十日市中、十日市東、十日市南、十日市西、北を除いてすべての方位が揃っています。外縁部には「十日市町」という町名が残っていますので、「十日市町」はこれら住居表示区域をも包含した町名であったのでしょう。で、肝心の「三次」はと言いますと、十日市町から馬洗川を挟んで北側一帯に、「三次町」という形で広がっています。主要な市街地は、西城川西岸、十日市町から巴橋で馬洗川を渡った先のようです。こう見てみますと、「三次市」とはいいながら、どうやらこの市には「三次町」と「十日市町」という、ふたつの市街地が存在するのではないか、ということに気づきます。果たして、三次市ができた過程を見ますと、1954(昭和29)年4月1日に、三次市は、三次町、十日市町外6村が合体して成立していました。三次町と十日市町というふたつの町が、馬洗川、西城川、江の川(可愛川:えのかわ)が収斂する山のあわいに発達し、今日の「三次市」の中心市街地となっているわけです。 駅前は、十日市の市街地を東西に貫く幹線道路である、国道183号線沿線は、現代における三次市の中心的な商業集積地として機能するメインストリートでしたね。ここから北へ入った市役所の面するルートも、巴橋を介して三次町へとつながる商店街を形成していました。こちらは国道375号線となっていて、銀行の支店が集っているのも特徴的でした。消防本部南東の交差点には、北東から北溝川の流れが交差していまして、付近一帯は穏やかな親水公園「出会いの広場」として整えられていました。さすがに清流とまではいきませんが、市街地の中をゆったりと流れるせせらぎは、貴重な環境です。なだらかな町並みと川の緩やかなカーブ、そして背後のまるい稜線と深い緑とが一体となって、本当に落ち着けるというか、どこかやすらぎに満ちた風景を作り出しているように思いました。社会保険事務所の方向へ、そんな穏やかな町並みを歩きますと、「サンシティ三次十日町東」のマンションが建設されていました。そういえば、駅前にモデルルームを作って大々的に宣伝していたマンションだったな、と思い返しました。広島県北部地方の拠点都市としての一端を垣間見た思いでしたね。
社会保険事務所の北は、すぐ馬洗川の土手になっています。そして、土手の内側の河川敷は、野球場などが整えられた「十日市親水公園」となっていまして、緑と水に囲まれた、たいへん広々とした、気持ちのよい空間のようでした。この時は、少年野球のチームが試合を行っておりまして、活気が漲っていました。ふと1つのチームのベンチに、「二岡智宏先輩を目指そう」なる文字が。そういえば、彼も三次の出身だったっけ。土手を境に、右手は瑞々しい流れと丘陵のさわやかな風景、左手は落ち着いた町並みがやはり彼方の丘陵を借景として佇む奥ゆかしい風景と、それぞれを楽しみながら、馬洗川のほとりを西へ歩みました。 親水公園の西端になりますと、にわかに「鵜飼」の幟旗が目立つようになります。小ぢんまりとした水道橋のたもとに、鵜飼に用いられる小船が停泊されていました。この一帯の水面が、三次の鵜飼が行われる場所なのだそうです。鵜飼と霧が、三次を彩る風物詩となっていますが、その雰囲気を味わうためにも、この町をまた訪れてみたいなとも思いますね。水道橋北詰には浄水場があるのですが、その前の土手から、馬洗川、西城川の合流点を目の前に、巴橋を望む風景は、水の集る都市・三次の美しさをもっともよく堪能することのできる場所なのではないかと思いました。しばし、土手に腰掛けて、その様子を眺めていました。 浄水場の北側は、丘陵のたもとに家々が連なり、川に近い低地は水田に利用される風景が広がります。山を背に集落、低湿地には水田、という構図は、日本各地で一般的に見られる土地利用の形態ですね。オーソドックスな風景ではありますが、またそうであるがゆえに、その土地ならではの情景ともなっているように感じますね。すてきな風景です。そして、西城川を挟んで望む対岸の三次の町並みもまたすてきな風景です。落ち着いたシックな屋根が並んで、その中に寺院の甍が点在しています。中でも、照林坊のそれは丸みを帯びた町のスカイラインの中にどっしりと収まっていて、この地域を見守ってきたともいうべき存在感を見せていました。
旭橋で西城川を渡り、三次町へ。そこは、まさに懐かしい風景の宝庫でした。尾関山や比熊山のやわらかい山容の間に佇み、お寺や、小さなお社や、商店や、家々が、実に慎ましい雰囲気です。尾関山公園へ向かう途上には、三次市文化会館や裁判所などの行政機関も立地しています。朝顔が生垣に美しく咲く大手町交差点を西へ向かうと、妙栄寺や吉祥寺と並んで、臨済宗の鳳源寺があります。三次は、広島浅野氏の支藩としての時代がありました。初代広島藩主浅野長晟の没(1632年)後、二代藩主浅野光晟は、異母兄浅野長治に5万石を分与し、成立したのが、三次浅野藩でした。長治は、藩の産業基盤の育成等に尽力し、その礎を築きましたが、以後代々後継者に恵まれず、1720年に廃絶しています。ここ鳳源寺は、そんな長治が、先祖の菩提を弔うために建立したもので、その背後の比熊山に眠っています。また、長治の娘阿久利姫は、赤穂藩主浅野長矩に輿入れしています。そう、あの「忠臣蔵」の刃傷事件で知られる浅野内匠頭その人です。境内には、四十七士の木像が収めれられた義士堂がありました。 尾関山から、三次の市街地を眺めました。なんと、たおやかな市街地なのでしょうか。3つの川が落ち合う要衝という位置を占め、古くより栄えてきたこの町は、いくつもの時間が降り積もって、磨かれて、慎ましく光り輝きながら、こうして今の美しい姿を持つに至ったのでしょう。そんな感慨を抑えることができませんでした。同時に、現在の中心的な商業地を持つ十日市の比較的密度の高い市街地と、穏やかな家並みが奥ゆかしい三次の市街とのコントラストも、手にとるように分かりました。この2つのあわいに三次の街の今を感じ、胸に刻みました。
尾関山を下り、三次町の本通りの美しい町並みを眺めながら、巴橋のたもとへ。川向こうから眺めていた照林坊は、間近に見ると強烈な存在感を持っています。西日本は、一向門徒の多い地域性で知られますが、この寺院の大きさはそれを象徴しているように思われました。同時に、三次町の、昔から栄えた商業地あるいは歓楽街として重ねてきた映像を目にしてきたであろう、誇りのようにも思えました。巴橋の手前にかけられていた交通標識が、三次町から十日市町へ向かう方向に、「三次市街地」と書かれていました。 |
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